都々逸と作詩

都々逸の学びと創作を中心に作詩関連や雑記、散歩写真など。

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知り合いがアダルトビデオに出演したことを告げ口された夢を見た 

知り合いがアダルトビデオに出演したことを告げ口された夢を見た。

告げ口してきたのは高橋久恵である。

彼女はけっこう興奮しているような表情であった。そこから感じたのは、何か怒りのようなものを抱えているのではないだろうか、ということである。
さらに表情だけでなく、怒りを感じさせる口調で私に訴えてきたのである。

「鈴木君がアダルトビデオに出てるんだって、本当にサイテーよね」

 

彼女がどうやって知ったのかは分からないが、鈴木君が男優としてアダルトビデオに出演していることを突き止めたようである。

 

そのビデオ作品がどんな内容のものなのかまで私は知らないが、彼女から鈴木君のアダルトビデオ出演を告げられた時に、なぜかその作品のパッケージ写真が頭に浮かんだ。 

夢の中の出来事なのですべては頭の中に浮かんでいることではあるが、夢の中でさらに頭に浮かんだのである。

何だか薄らボケたイメージではあるが、女優の姿が大きく写っているパッケージ写真であった。私の頭の中にできたイメージにすぎないが、なにしろ夢の中のことなので、それがすべてであり、夢の中の事実である。

つまり、その作品は女優が主演するもので、男優はその相手役として女優を引き立てる役割で出ているような、まあ一般的な種類のアダルトビデオであろう。鈴木君が主演の作品ではないはずだ。

 

さて、私と高橋久恵と鈴木君がどんな人間関係にあるのかを説明するのは難しく、それを書こうとすると、とても長い文章になってしまうだろうし、なおかつ、それで理解していただけるかどうも分からない。
加えて、私はもちろん、彼女も鈴木君も実在の人物ではあるのだが、夢の中の人間関係は現実とは少し違うような気もするので、それも踏まえて説明しようとすると複雑怪奇なことになりそうだ。


そこで分かりやすいように、この三者の人間関係を、高校や中学の生徒の関係に喩えて説明してみよう。

この3人は同じ学校のクラスメイトである。

私と鈴木君は少し話しをしたことはあるが、普段は会ってもせいぜい軽く挨拶をするくらいの関係だ。
高橋久恵とも、さほど親しくはないが、教室での席が近いため会話を交わす機会はわりとある。

高橋久恵と鈴木君の関係も、私と鈴木君の関係と同様で、クラスメイトでお互いに知ってはいるが、あまり親しくない間柄だと思う。
まあ、こんな感じだ。

 

鈴木君は、かなりまじめな性格だと思うし、むしろあまり融通のきかない堅い人物で、そのせいか要領の悪さが気になることもある。
日頃の素行からはアダルトビデオへの出演など想像することすらできない。

高橋久恵は少し目立つようなところはあるものの、まじめで賢い感じがする。
話好きのようで、私とも他愛もないやりとりはあるが、プライベートでは会ったこともない。

 

そんな高橋久恵が、鈴木君のアダルトビデオ出演を私に告げ口してきただけでなく、さらに、
 「どうしてアダルトビデオになんか出たのか、鈴木君に聞いてきてよ」
と、何とも迷惑で厚かましい依頼を私にしてきたのである。

 

なぜ彼女はそこまで鈴木君のアダルトビデオ出演が気になるのだろうか。
もしかしたら、彼女は鈴木君のことが好き、恋しているため、アダルトビデオ出演に対する言いようのない憤り、あるいは嫉妬のようなものを感じているのであろうか。
つまり、恋愛感情が彼女を怒りへと導いているのか。

しかし、普段の振る舞いなどから私が見たところでは、彼女は鈴木君のことをまったく気にも留めていないか、むしろ軽蔑しているかのようなところがある。まさか、彼女が鈴木君に恋してるなどありえないように思える。

 

とはいえ、恋とは分からないものである。誰が誰のどこに、どんな風に惹かれるのかなんて見当もつかない。
他人にはまったくもって不思議で理解不能な恋愛関係は世の中に溢れるほど例がある。彼女が鈴木君に恋心を抱いていたとしても、驚きながら認めざるを得ない。

 

それにしても、どうして私はそんな夢を見たのか。理由がきになる。

「高橋久恵は鈴木君のことをまったく気にも留めていないか、むしろ軽蔑しているかのようなところがある」と、私は感じつつも、その深層に恋の匂いを感じて、それが潜在意識を刺激してこの夢を紡ぎ出したのであろうか。

また、私は無意識の内に彼女のことが気になっていて、それで夢の中に彼女を登場させたのだろうか。思い当ることはないのだが、そういうことも有り得るかもしれない。

 

分からないことだらけだが、夢の中の話しに戻ろう。

彼女から「鈴木君がアダルトビデオに出た理由を聞いて」と、頼まれた私は、しかたがなく聞きに行った。

行ったというよりは、聞きに行こうと思ったら目の前に鈴木君がいたと述べた方が正しい。そして目の前の鈴木君は、私が口を開く前にこう言った、
「そうなんだよ、高橋久恵からいきなり『どうしてアダルトビデオになんか出たのよ! あんたサイテーよ』って怒られたんだけど、わけ分かんない」

 

私が口を開く前に鈴木がそう言ったということは、私より前に、彼女が自身が鈴木君に会って怒ったことになるが、それについて夢の中の私は何とも思わなかった。

ただ鈴木君の言うことを聞いてすぐに私は、
「まあ、そうだよな。俺の方がもっとわけ分かんないけどな」
と、思っただけだった。

 

この夢について覚えているのはここまでである。 
続きはあったような、なかったような、曖昧模糊な感じだが、夢の先なんていくらでもあるような気がしている。

運動不足(都々逸の創作)

今週のお題「運動不足」

 

ウンドー クレーデ
ヤセルン ナラア
リキシモ ケイコデ
ヤセルハズ

運動くらいで
痩せるのならば
力士も稽古で
痩せるはず


ウンドー ブソクヲ
カイショー スリャア
ビール ウマクテ
ナオフトル

運動不足を
解消すれば
麦酒うまくて
なお太る

三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい(有名都々逸に学ぶ その一)[3/3]

三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい(有名都々逸に学ぶ その一)[2/3] からの続き

 

 

難波新地と初代三遊亭圓右

 

都々逸[三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしたみたい]と、落語『三枚起請』は、どちらが先に作られたのであろうか。

 

まず、都々逸[三千世界〜]が作られた時期だが、仮に高杉晋作の作という説に従えば、作られたのは幕末ということになる。しかも、高杉は二十七歳で亡くなっているため、時期はかなり限定される。この都々逸が遊廓で作られたとすれば、そうした遊びをするようになる年齢から二十七歳までの間ということになる。

別説の久坂玄瑞説でも同様である。維新の三傑の一人である桂小五郎説をとった場合は、少し期間が延びる。桂小五郎は、木戸孝允と名を変えて侯爵に叙され、新政府の要職を務め、明治十年まで生きているため明治時代の可能性も出てくる。

本当に高杉晋作によって作られたものかどうかは分からない。久坂玄瑞木戸孝允かどうかも分からない。しかし、そうした説が有名になるところから推定すると、幕末か、そこからさほど離れていない時代に作られたものということになるだろう。

 

一方、落語の『三枚起請』はどうであろうか。調べて分かったのは、『三枚起請』は、もとは上方落語で、難波新地のお茶屋を舞台にした噺であったことだ。

 

難波新地というのは大阪の南地五花街の一つである。南地五花街は江戸時代から発展し、明治以後に大阪最大の花街となったようである。しかし、それが分かっても『三枚起請』がいつできたのかは分からない。

江戸時代かもしれないし、明治になってからかもしれない。江戸時代を舞台にした噺は、維新後にも作られているので、『三枚起請』も明治に作られたとしても不思議ではない。

 

次に江戸落語としての『三枚起請』であるが、これは舞台を江戸の吉原遊廓に変えて、初代三遊亭圓右が上方から江戸落語に持ち込んだものである。

初代三遊亭圓右は、万延元年(1860年)に江戸は本郷に生まれ、 大正十三年(1924年)に没した。ちなみに、初代三遊亭圓右は、あの三遊亭圓朝名跡を襲名しながら、その後すぐに亡くなってしまったため、幻の二代目圓朝とも呼ばれる。

もちろん、初代三遊亭圓右は東京の落語家であるが、明治三十年くらいから上方でも活動していた時期があるようだ。『三枚起請』を江戸落語に持ち込んだのは、その頃か、その後と推測される。

 

私が少し調べて分かったのは以上である。ほとんど何も判明していないことになってしまう。上方で『三枚起請』の噺が作られた時期が特定できなかったからだ。
そのため、『三枚起請』と[三千世界〜]のどちらが先に作られたのかは分からない。
三枚起請』の噺が作られた時に、既に[三千世界〜]の都々逸が世に知れ渡っていたかどうかは、私の調べでは不明である。

だが、時代的に考えて、初代三遊亭圓右が『三枚起請』を江戸落語に持ち込んだ時に、都々逸[三千世界〜]が世に広まっていたのはほぼ間違いないと思われる。この都々逸ができたのが幕末辺りで、落語が江戸に持ち込まれたのが明治三十年以後と推測されるからだ。

 

そのため、圓右によって『三枚起請』が江戸落語に持ち込まれる際に、この都々逸が利用されはじめた可能性はあると思う。

しかし実際のところは分からない。つまり、残念ながら私の拙い調べでは何も確定的なことは分からなかった。もし、ご存じの方がいたら教えていただけると誠にありがたい。

 

 

三界に家有り

 

では、これまで述べてきたことをすべて踏まえて、この都々逸、

三千世界の カラスを殺し
主と朝寝が してみたい

を、私の憶測や想像をまじえて改めて解釈したい。

 

まず、冒頭の「三千世界」は何を意味しているのか。この言葉は本来は仏教用語であり、十億の世界(十億の小世界)であることは説明した通りだ。一人の仏で教化する世界の範囲であるとも述べた。

 

「三千世界」が、とてつもなく多い数の世界を表していることも、その通りで間違いなく、都々逸の文句として、そこにも意味はある。しかし、実はそれだけでなく「仏教用語」で、一人の仏で教化できる世界という点にこそ、さらに重要な意味を私は見出したいと考えている。

仏が教化する世界ということは、教化が必要な世界ということだ。業や煩悩に支配され、輪廻転生を繰り返す衆生・凡夫が暮らす世界ということになる。

衆生というのは煩悩や迷いの世界にいる生類全般のこと。凡夫とは煩悩に囚われて迷いから抜け出られない者、つまり衆生も凡夫も我々のことである。

 

もう少し詳しく説明すると、三千世界を構成する小世界の一つに我々はいるわけだが、この小世界はさらに、欲界・色界・無色界の三つの世界でできている。三つ合わせて「三界」と呼ばれる。

そして衆生・凡夫は、煩悩と業に支配されていることによって、生死を限りなく繰り返しながら、欲界・色界・無色界の三界の中を終わりなく行ったり来たりし続ける。これが輪廻転生である。

 

仏教と一口に言っても、宗派の違いなどにより色々な考え方があるだろうが、輪廻転生から解き放たれることを「解脱」と言い、それを成し遂げるのが仏教の目指すものである。言い換えれば、解脱するために煩悩と業を消滅させることを説くのが仏教である。

 

つまり、この都々逸の「三千世界」は、ただ広い世界のことを表現しているだけではなく、煩悩まみれの衆生が暮らす苦しみに満ちた(仏教的に言えば四苦八苦)の世界のことも意味していると私は考えた。

煩悩に支配されて輪廻転生から抜け出せない凡夫どもの暮らす十億の世界が、この都々逸に唄われる「三千世界」なのではないだろうか。

 

そして、このことが、次の「カラスを殺し」が何を意味するのか、という問題に大きく関係してくると考える。

 

 

おからすさん

 

この都々逸の作者がカラスを殺したいのは、うるさくて朝寝の邪魔になるからではない。遊女が色々な客と交わした起請文を反故にするという意味である。なぜなら「三千世界」という文句の背景には、上記のような仏教的な意味があるからだ。

 

遊廓の起請文は、色欲に惑わされた客と、遊女の金欲との間で取り交わされるものである。つまり、遊女と客が、お互いの欲と欲で交わした煩悩の書き写しのようなものである。煩悩に支配された衆生が輪廻転生をくり返しながら暮らす世俗世界のしきたりに縛られて、欲望と欲望の取り決め、欲の約束事が書かれているのが起請文である。

 

かつて、その起請文は遊廓でよく取り交わされていた。そして、その起請文の見た目の特徴はカラス文字が書かれていることであるため「おからすさん」と呼ばれることもあった。さらに「三千世界」というのは、煩悩に支配された凡夫の暮らす世界のことである。

これらのことが分かっていれば、この都々逸にある「カラスを殺し」の意味は、遊郭で交わされた起請文を反故にすること、つまり誓約を破ることだと容易に導き出せるはずだ。 

 

さらに「カラスを殺し」には、起請文を破るだけではなく、その延長として「遊女であることをやめたい」という意味も含まれていることが推察される。ここで言う「カラス」は単に起請文というだけでなく「私を縛っている三界の欲で出来た誓約」であり「郭の掟」でもある。

「カラスを殺し」という文句には、そういったものから解き放たれて自由になりたいという思いも込も込められていると考えられるからだ。

遊女という仕事で金を稼ぐために、欲望と欲望で取り交わされる誓約書に振り回されなければならないみじめな自分を解放したい。そして自分の気持ちに正直になりたいという願いを、この都々逸は唄っているのであろう。

 

もちろん、郭の掟を破るということになれば、それ相応の責め、仕置きや罰は覚悟しなければならないし、現実的には不可能であることは分かっている。とどのつまりは「現世で一緒になるのは無理だとあきらめ、せめて来世で結ばれよう」と、心中に行き着くしかないのかもしれない。

 

 

添い寝

 

では「主と朝寝がしてみたい」は、どういった意味だろうか。結論から述べれば、これは「好きなあなたと所帯を持って一緒に暮らしたい」つまり「夫婦になりたい」ということを歌っていると考えられる。ただし、[1/3]で紹介した郭の決まり事とは、別の理由からである。

 

つまり、

遊廓では客を朝早く(卯の刻・だいたい朝六時)に帰す決まりになっていたので、客と遊女が一緒にのんびり朝寝することはできないはずだ、という指摘もある。 

この指摘に忠実に解釈すると、朝寝をするには郭を出なければならなくなる。つまり、一緒に朝寝ができるのは、遊女の年季が明けて郭を出て、晴れて二人が夫婦になってからになる。 

だから、この「朝寝がしてみたい」には、「年季が明けたら好きな人(主)と所帯を持ちたい」という想いが込められているということになる。

 

と、いう説に基づくものではなく、まったく別の理由から「夫婦になりたい」という意味だと解釈する。

 

その理由は何かと言えば、この都々逸の作者がしたいのは「朝寝」ではないから、ということである。私は「朝寝がしてみたい」に疑問を持っており、本来の文句は「朝寝」ではないと考えている。これも既に述べているが、そもそもこの都々逸は「朝寝のことなど歌っていない」のである。

 

そして、これもまた[1/3]の初めの方で述べたことだが、この都々逸には別の表現で伝わっているものがある。「朝寝」のところが「添い寝」になっているものだ。私はその「添い寝」の方こそが、この都々逸の本来の文句ではないかと考えている。

つまり、この都々逸の正しい文句は、

三千世界の カラスを殺し
主と添い寝が してみたい

の方ではないだろうか。

 

この都々逸の作者は「添い寝がしてみたい」という文句で、好きな人と所帯を持って一緒に暮らしたいことを表現したのだと思う。

 

こんな都々逸ある。

主によう似た やや子を産んで
川という字に 寝てみたい

 

「三千世界〜」の都々逸も、これと類似の遊女の心情を唄っているのではないだろうか。重い借金を背負い、長い年季奉公に縛られた身の上では郭を出ることはできず、愛する人との暮らしは叶わぬ夢である。それでも、それを夢見て唄った都々逸であろう。

 

本来は朝寝のことなど一切まったく歌っていなかった。遊女をやめて、本当に好きな「主」と所帯を持って一緒に暮らしたいという気持を歌っっていたのである。だから、もともとは「朝寝」という文句は使われていなかったと考える。夫婦になりたいという気持を表現するなら「朝寝がしたい」よりも、「添い寝がしたい」の方が相応しいからである。

 

「朝寝」という表現を使ってしまうと、「遊郭で一緒に夜を過ごして、朝になってもそのまま一緒に寝ていたい」と、いうような意味に解釈されやすくなってしまう。

さらに、「カラスを殺し」も、次に「朝寝がしてみたい」が続くことにより、「朝寝をするのにカラスが鳴いてうるさくて邪魔だから」とか、「朝が来たと相手に分からないようにカラスを殺す」などの解釈が生まれやすくなってしまう。

しかし、「添い寝」であれば、そうした解釈は成り立たないばかりか、考え出される余地もない。起請文を破るという意味の他に解釈のしようがなくなるのだ。

 

そして何よりも「添い寝がしてみたい」の方が、「朝寝がしてみたい」より、幸せな家庭を築きたいという思いがよく感じられる表現となる。「他の客との誓約なんてぜんぶ無視して、好きなあなたと一緒になりたい」のである。

 

では、どうして、いつから、添い寝が朝寝に変わってしまったのだろうか。最も疑わしいのは、この都々逸が落語『三枚起請』のサゲに使われるようになったことであり、そのために、だんだんと「添い寝」が「朝寝」に変わって唄われるようになっていったのではないだろうか。そんな仮説を私は立てている。

ただし、落語『三枚起請』で、この都々逸が使われ始めた時、すぐに「朝寝」に変えたとは限らない。「起請文を破るとカラスが死ぬ」ことだけを説明するために使っていたとしたら、初期は「添い寝」のまま都々逸を引用したのかもしれない。
しかし、だんだんと噺の内容に影響されて「朝寝」に変わっていったのかもしれない。そんな変化のしかたもあり得るように思う。

 

いずれにしても、ある時期から落語では「添い寝がしてみたい」に取って代わって「朝寝がしてみたい」が使われるようになっていった。やがて、その影響を受け、一般的に「朝寝がしてみたい」の文句の方が広く世間一般に浸透していったのではないだろうか。そして、この都々逸が唄っている内容の解釈も「朝寝をするためにカラスを殺す」へと変化していったのではないだろうか。

 

 

卵の四角と遊女の誠

 

改めて、私の解釈によって、この都々逸の意味をわかりやすく書くと次のようになる。

 

煩悩にまみれた十億もの世界の、 

あらゆるしがらみや、借金や、

私を縛っている誓約を、 

ことごとくすべて打ち捨てて、 

たとえこの身がどうなろうとも、 

本当に好きなあなたと一緒になりたいんだよ。

 

 

さて、ここまで、私はこの都々逸から色々と学ばせていただいた。

そこで、この学びを生かし、自作の都々逸をもって本稿を締めくくりたい。
もし私がお気に入りの遊女から「三千世界のカラスを殺し主と添い寝がしてみたい」という都々逸を歌ってもらったら、こう返したいというものだ。

添い遂げて
カラス供養の
弔い旅に
十万億土
巡りたい

「いやいや、『もしも』にしても、お前がそんなにモテるわけがなく、お気に入りの遊女から、そんな都々逸をもらえることなど有りえない話だ」 
と、思われるかもしれない。

しかし、どんな嘘をついてでも客をその気にさせ、自分の所に通わせて金を稼ぐのが遊女というものであることは、既に述べた通りである。

好きなおやつ(都々逸の創作)

今週のお題「好きなおやつ」

 

主食より
好きなお八つに
溺れて育ち
酒色に溺れる
人になる

シュショクヨリ
スキナ オヤツニ
オボレテ ソダチ
シュショクニ オボレル
ヒトニナル

 

十万億土(都々逸の創作)

添い遂げて
カラス供養の
弔い旅に
十万億土
巡りたい

ソイトゲテ
カラス クヨーノ
トムライ タビニ
ジューマン オクドヲ
メグリタイ

おじいちゃん・おばあちゃん(都々逸の創作)

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

 

フタアケテ
アット ユーマニ
ジジイニ ナリャア
ラクナ ジンセイ
タマテバコ

 

蓋開けて
あっと言う間に
爺になれば
楽な人生
玉手箱

 

蓋を開ければ
じじいになれりゃ
楽な人生
玉手箱

三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい(有名都々逸に学ぶ その一)[2/3]

→三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい(有名都々逸に学ぶ その一)[1/3]からの続き

 

 

 

 

起請文とは

 

「カラスを殺し、主と朝寝がしてみたい」という文句が、なぜ、

「遊女が『色々な客と交わした起請文を反故(ほご:無効)にして、好きな人と朝寝がしたい』と唄っている」

と、解釈されるのだろうか。 

 

それを説明するために、まず、ここでいう「起請文」とはどのようなものであるか述べよう。そして、それが遊廓でどのように使われていたかについても紹介する。

 

起請文というのは誓約書のことであるが、この場合は「熊野牛王符(くまのごおうふ)と呼ばれる神札(おふだ・しんさつ)を使った誓約書のことを指す。

一般的に神札(おふだ)は神社から頒布されるもので、多くは短冊のような形をしており、家庭の神棚などに祀られる。しかし、熊野牛王符は、熊野三山で頒布される特殊な神札で、和紙に烏文字(からすもじ)が書かれ、朱印が押してある。

熊野三山とは、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三つの神社の総称である。

その神札が実際にどのようなものであるかについては、「熊野牛王符」で検索すれば出てくるので参照していただきたい。

烏文字というのは、カラスの姿をかたどったアイコンのようなもので組み立てられた文字である。烏文字を使ってどんな意味の言葉が書かれているのか、私には判読できないが、きっとありがたいことかが書かれているに違いない。

三つの神社それぞれで、熊野牛王符の意匠は少し異なるが、烏文字が書かれているのは共通している。烏文字が書かれているのは、カラスが熊野の神の使いだからである。

 

神話では、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇の東征に際して熊野国から大和国への道案内をして導いたとされている。ここから、カラスが神の使いと考えられるようになったようだ。また八咫烏自体が導きの神として崇拝されることもある。

日本サッカー協会のシンボルマークや、サッカー日本代表エンブレムとして八咫烏が用いられていることにも、このことは関係しているようだ。

ただし、その理由にはいくつか説がある。「天武天皇が熊野に通って蹴鞠(けまり)をしていたから」という説や、「藤原成道という人が熊野に詣でて蹴鞠の上達を祈願し、蹴鞠の名人になったから」などの説がある。

あるいは、八咫烏が導きの神ということから「ボールをゴールに導くようにとの願いから」とも言われている。

 

熊野牛王符は「熊野牛玉符」と書かれることもある。また、カラスが書かれていることから「おからすさん」や「烏牛王」などとも呼ばれる。本来の用途は護符である。お守り、厄除け、魔除け、招福、加護などの目的で、懐に入れて持ち歩いたり、祀ったり、家の中に貼ったりする。

しかし、護符として使われる他に、起請文を書く用紙として使わるようにもなった。既に述べたように、熊野牛王符にはカラス文字が書かれ朱印が押してあるのだが、その裏面に起請文(誓約)を書くのである。
裏面に誓約事を書いて誓約書とする。こうして
起請文の書かれた熊野牛王符は「熊野誓紙」とも呼ばれた。

熊野牛王符に誓約を書くと、熊野の神に誓ったことになる。そして、もし書いた誓約を破ったなら「熊野の神の使いであるカラスが三羽死に、破った本人も血を吐いて死んで地獄に落ちる」とされた。

 

いつから熊野牛王符の裏面に誓約を書いて起請文にするようになったかについては諸説あるようだ。

使ったと言われている有名な例としては、豊臣秀吉が死の床にあって、徳川家康石田三成などの五大老五奉行に熊野牛王符に起請文を書くよう命じたという話もある。自分亡き後の息子の秀頼への忠誠を誓わせたのである。
ただし、使われはじめたのは秀吉の時代よりももっと前と思われる。

 

 

起請文は遊廓でどう使われたか

 

さて、この熊野誓紙だが、江戸時代になると遊女と客との間で取り交わされるようになった。実際にどのように使われていたのか。

それは、古典落語の『三枚起請(さんまいきしょう)』という噺(はなし)を聴くと、だいたいわかってくる。『三枚起請』の筋をごくごく簡単に述べてみよう。

 

三枚起請』は、江戸時代の遊廓が舞台の噺である。 

 

ある遊女が、馴染み客に、
年季奉公が明けたら、あなたと結婚します」
という起請文を書いて渡した。 

もちろん熊野牛王符の裏面に書いた起請文、熊野誓紙である。それを受けとった客は、遊女に本気で惚れられたと思い、すっかりのぼせて、その気になって、その遊女のところへ客として足繁く通っている。

しかしある日、自分がもらった起請文と同じ内容のものを、同じ遊女から別の二人も受けとっていることを知ってしまう。起請文が自分の分を合わせて三人分、三枚見つかったので『三枚起請』である。

 

そこで、その二人と一緒に、起請文を書いた遊女のところへ行き、どうして同じ起請文を書いて、それぞれに渡したのか問い詰める。

遊女は、ごまかそうとしていたが、やがて観念する。そして、
「客の男どもをその気にさせて金を稼ぐために嘘の起請文を書き、自分のもとに通わせていた」
と、白状する。

 

そこで、だまされていた男の一人が頭に血が上って詰め寄り、こう怒鳴る。
「起請文に嘘を書くと熊野のカラスが三羽死ぬと言うだろう」 

すると遊女は、開き直ってこう言う。
「私は世界中のカラスを殺したいんだよ」

それを聞いて男が、
「世界中のカラスを殺してどうしたいんだ」
と言うと、

遊女は答える。
「朝寝がしたいんだよ」

 

これが、落語『三枚起請』の極めて大まかな筋である。

以上の説明をもとに都々逸「三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい」の解釈に戻ろう。

【説五】の、「遊女が『色々な客と交わした起請文(誓約書)を反故にして、好きな人と朝寝がしたい』と歌っている。」という解釈は、こうした背景を知って始めて理解できる。

 

誓約を破ると熊野のカラスが死ぬと言い伝えられていることから、この都々逸にある「カラスを殺し」というのは、他の客に渡した起請文を反故にする、つまり「他の客との誓約を破る」という意味になる。

「主と朝寝がしたい」という文句は、「(誓約を交わした他の客たちではなくて)本当に好きなあなたと朝寝がしたい」という意味になる。 

つまり「他の客との誓約なんて破って、好きなあなたと朝寝がしたい」ということ。

これが【説五】の解釈である。 

 

 

実際に江戸時代の遊廓ではこうした起請文がよく交わされていたようで、こんな川柳も伝わっている。

約束に 烏に指の 血を吸われ

起請文には、指を切って遊女と客の血判を押して誓いを立てたようであり、そのことを「烏に血を吸われ」と表現しているようだ。 

 

また、

熊野では 今日も落ちたと 埋めてやり

という川柳もある。

熊野では頻繁にカラスが死んで空から落ちてくるので、毎日のように埋葬しているという意味であろう。

つまり、誠に罰当たりなことではあるが、熊野牛王符に書かれた誓約は毎日のように破られていて、それを揶揄しているわけだ。

「もし誓約を破ったら熊野の神の使いであるカラスが三羽死に、破った本人も血を吐いて死に地獄に落ちる」という言い伝えも、やがていい加減なものになり、書かれた誓約が守られなくなっていったと受け取れる。

だが、別の見方をすれば、嘘の起請文を書いてでも遊女は客をとって金を稼がなければならず、それだけ生きていくことに必死で、きつい境遇だったとも考えられるのではないだろうか。

 

以上、起請文とその遊廓での使われかたについて説明した

 

/三千世界の/鴉を殺し/主と/朝寝がしてみたい/
  ↑    ↑    ↑    ↑
 説明済  説明済  説明済  説明済

 

 

解釈を整理する

 

これで、この都々逸、

三千世界の カラスを殺し
主と朝寝が してみたい 

についてなされている様々な解釈の紹介と、その説明を終えたので、整理して確認しよう。

 

まず、「主と朝寝がしてみたい」の「主」は誰のことなのか。その解釈は下記の三つである。

 

【説一】
この都々逸の作者は遊女の客の男であり、「主」というのは遊女である。

 

【説二】
この都々逸の作者は遊女であり、「主」は、その遊女の間夫とか、惚れた男のことである。

 

【説三】
【説二】と同じで、「主」は遊女が惚れている男のことである。しかし作者は別人で、遊女の気持ちを汲み取った誰かが作った。

 

 

次に、どうしてカラスを殺したいのか。「カラスを殺す」とはどういう意味なのかについては、五つの説がある。

 

【説一】
好きな人とゆっくり朝寝をするために、早朝からうるさく鳴くカラスを殺したい。

 

【説二】
鳴いて朝を告げるカラスを殺してしまい、一緒に寝ている惚れた相手が朝が来たことが分からないようにして、このまま朝寝を続けたい。

 

【説三】
好きな人とゆっくり朝寝をするために、世の中の様々な面倒事から解放されたい。

 

【説四】
佐幕派を一掃し(皆殺しにして)勤王の志士として大望を遂げ、その後で、好きな人とゆっくり朝寝がしたい。

 

【説五】
遊女が「色々な客と交わした起請文(誓約書)を反故にして、好きな人と朝寝がしたい」と唄っている。

 

さて、ではこの中でどの解釈が正しいのであろうか。
あっさりと結論を言ってしまえば、どれが正しいかなんて私に分かるわけがない。

いや、私だけでなく、専門の研究者であっても、推論はできても断定はできないのではないだろうか。解釈の有力な手がかりとなる資料でも発見されれば別だが、現段階では分からないと思う。

 

しかし、正しい解釈など気にすることはない。正しい解釈が分からなくても、各自が勝手に自分の好きな解釈で楽しめばいい。それが都々逸というものだと思う。

 

だが、そうとは言いながらも、私はこの都々逸にどうしてこれほど多くの解釈が生じてしまったのか、その理由に興味がある。そして、多くの解釈が生じた理由を探ることによって、その深みが見えてくるような気もしている。

そこで、多くの解釈が生じた理由を考えながら、私なりの推論を行いたいと思う。

 

ここまでは事実や資料、あるいは見聞に基づいて記述してきたが、この後に書くのは私の憶測や想像、あるいは空想にすぎない。そのことをお断りしておく。

 

 

三千世界の三枚起請

 

この都々逸に多くの解釈が生じてしまった原因の一つは、既に述べたように、作者を高杉晋作とする説が、有名過ぎるからではないだろうか。

この都々逸の作者は遊女であり、「主」は、その遊女の間夫とか、惚れた男のことである」と解釈されるのが自然だと思われる。

しかし、高杉晋作が作ったという説が有名になり影響力が強すぎるため、作者は男であり、男が遊廓の客の立場で唄ったものであるという先入観に支配されるようになった。

そこから、[主]というのはお気に入りの遊女、つまり敵娼(あいかた)のことだと解釈されるようになり、客の男が遊女に向かって「主と朝寝がしてみたい」と唄っているのだという別の解釈が生まれたのではないかと思う。

 

また、高杉説以上に様々な解釈を生じさせている大きな要因は、この都々逸の解釈に、先ほど紹介した落語『三枚起請』が強く影響しているからだと考える。

 

三枚起請』の筋を思い出していただきたい。この噺は最後「カラスを殺して朝寝がしたいんだよ」で落ちる。

実際に私が寄席で聴いたこの噺の構成を紹介してみよう。あくまでも私が聴いた落語でのことだが、噺の枕でこの都々逸について触れた後で、『三枚起請』の話の本題に入って行くとういう流れであった。

 

枕で「『三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしてみたい』なんて都々逸がありますが〜」と、いった感じで話をはじめ、噺の舞台となっている当時の状況の説明などをしながら『三枚起請』の本題に入っていくのである。

つまり、この都々逸の「朝寝」で噺を落とすため、冒頭でそのことに触れて予備知識を客に与えてから本題に入っていく構成になっていた。

 

古典とはいえ落語は同じ名称の演目でも、一門によって少し話が違っていたり、落語家個人によって様々なアレンジを加えることも多い。ましてや、枕を含めた全体構成などは、演者によって違うのは当たり前だし、同じ演者でも時と場合によってもやり方は異なる。そのため、私が聴いたものを代表例として挙げるのは憚れる。

さらに、断っておかなければならないのは、私が聴いたのは東京の寄席でやっていた「江戸落語」としての『三枚起請』である。後で取り上げるが、この噺はもともとは「上方落語」のネタであり、後に江戸落語に移入されたようである。もとの上方落語と、移入された江戸落語では違いがあると思われる。

そういった前提を踏まえた上でのことだが、色々と検索などをしてみても、『三枚起請』は、上記と類似の構成でやられていること多いようではある。

三枚起請』の落語に、この都々逸[三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしてみたい]が、利用されている場合が多いようなのだ。

 

この落語は、遊女が「カラスを殺してどうしたいんだ」と聞かれて「朝寝がしたいんだよ」と答えて落ちるわけだが、このオチは言外に、

「あの有名な都々逸でも『三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしてみたい』って唄われているじゃないか、それと同じように私も(カラスを殺して朝寝がしたいんだよ)」という意味が含まれているような、そんな落とし方をしているのではないかと思う。

三枚起請』の落語と、[三千世界〜]の都々逸が切ってもきれない間柄になってしまっているのだ。まるで『三枚起請』の噺は、都々逸[三千世界〜]を前提にして作られているかのようである。

 

三枚起請』の噺は、はじめから都々逸[三千世界〜]をサゲに使う前提で作られたものなのか、それとも、本来はまったく関係がなく作られ、後に結びついたのか。

私は指摘したい。
落語『三枚起請」のオチと、都々逸[三千世界〜]が言わんとしている内容は、本来まったく異なる。

もともとこの二つは関係がなく成立し、後に結びついたのではないかと考えている。

 

落語『三枚起請』の方は、問い詰められた遊女が「朝寝をするために起請文を破ってカラスを殺すんだ」と、強がりを言うオチである。

ここで言う朝寝とは、朝の睡眠のことであろう。睡眠の妨げになる、うるさいカラスを殺すのである。話の流れから考えれば、好きな客と一緒の朝寝でなくてもいい。一人でゆっくり睡眠がとりたいという意味であっても問題はない。

 

これに対して都々逸[三千世界〜]で唄われているのは「好きな人と朝寝をするためにカラスを殺したい」というものである。こちらの朝寝は逆に必ずしも睡眠である必要はないだろう。好きな人の隣で一緒に寝ていることが重要である。朝寝がしたいというよりも、好きな人と一緒にいることの方が重要だ。

 

この違いがあるにも関わらず、都々逸[三千世界〜]が、落語『三枚起請』のサゲに使われるようになっている。そのせいで、[三千世界〜]の解釈が『三枚起請』の噺の方に引っ張られていったように、私には思えるのだ。

落語の影響を受けて、都々逸[三千世界〜]の内容がだんだんと『三枚起請』のオチと同じだと誤解されるようになり、いつしか朝の睡眠をするためにカラスを殺すという意味だと考える人が多くなっていったのではないだろうか。

 

落語『三枚起請』は、この都々逸がなくても本来は落ちる噺である。熊野牛王符の起請文について知っていて、かつ、カラスが早朝から鳴いてうるさく朝寝を邪魔するものと理解していれば、この都々逸を知らなくても落語『三枚起請』は成立する。

落語を聴く側に、[起請文に嘘を書いた]→[カラスが死ぬ]→[早朝が静かになる]→[朝寝ができる]という流れが理解されていれば、この都々逸がなくても『三枚起請』落ちるのである。

この噺が成立した頃の人たちは、いわば常識として起請文のことを知っていた。しかし、昔の聴衆は知っていた起請文のことも、だんだんと忘れ去られ、聴く側がこの流れを理解しなくなった。そこで、それを理解してもらうために、この都々逸を使うようになったとは考えられないだろうか。

当初は使われていなかったが、ある頃から使われるようになったと推測する。

 

さて、この推測について検討するには、まず、落語『三枚起請』と都々逸[三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしたみたい]は、どちらが先に作られたのか明らかにしたほうがよいだろう。

そこで、少し調べてみた。
その結果については、また稿を改めて述べたいと思う。

 

→三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい(有名都々逸に学ぶ その一)[3/3]へ続く

ごはんのお供(都々逸の創作)

今週のお題「ごはんのお供」

 

ラニ クワセテ
フトラス テキガ
ウマイ メシトモ
デブノトモ

 

更に食わせて
太らす敵が
うまい飯供
デブの供

 

味な誘惑
おかわりさせて
うまい飯供
デブの供