→三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい(有名都々逸に学ぶ その一)[1/3]からの続き
起請文とは
「カラスを殺し、主と朝寝がしてみたい」という文句が、なぜ、
「遊女が『色々な客と交わした起請文を反故にして、好きな人と朝寝がしたい』と唄っている」
と、解釈されるのだろうか。
それを説明するために、まず、ここでいう「起請文」とはどのようなものであるか述べよう。そして、それが遊廓でどのように使われていたかについても紹介する。
起請文というのは誓約書のことであるが、この場合は「熊野牛王符(くまのごおうふ)と呼ばれる神札(おふだ・しんさつ)を使った誓約書のことを指す。
一般的に神札(おふだ)は神社から頒布されるもので、多くは短冊のような形をしており、家庭の神棚などに祀られる。しかし、熊野牛王符は、熊野三山で頒布される特殊な神札で、和紙に烏文字(からすもじ)が書かれ、朱印が押してある。
熊野三山とは、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三つの神社の総称である。
その神札が実際にどのようなものであるかについては、「熊野牛王符」で検索すれば出てくるので参照していただきたい。烏文字というのは、カラスの姿をかたどったアイコンのようなもので組み立てられた文字である。烏文字を使ってどんな意味の言葉が書かれているのか、私には判読できないが、きっとありがたい何かが書かれているに違いない。
三つの神社それぞれで、熊野牛王符の意匠は少し異なるが、烏文字が書かれているのは共通している。烏文字が書かれているのは、カラスが熊野の神の使いだからである。
神話では、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇の東征に際して熊野国から大和国への道案内をして導いたとされている。ここから、カラスが神の使いと考えられるようになったようだ。また八咫烏自体が、導きの神として崇拝されることもある。
日本サッカー協会のシンボルマークや、サッカー日本代表エンブレムとして八咫烏が用いられていることにも、このことは関係しているようだ。
ただし、その理由にはいくつか説がある。「天武天皇が熊野に通って蹴鞠(けまり)をしていたから」という説や、「藤原成道という人が熊野に詣でて蹴鞠の上達を祈願し、蹴鞠の名人になったから」などの説がある。
あるいは、八咫烏が導きの神ということから「ボールをゴールに導くようにとの願いから」とも言われている。
熊野牛王符は「熊野牛玉符」と書かれることもある。また、カラスが書かれていることから「おからすさん」や「烏牛王」などとも呼ばれる。本来の用途は護符である。お守り、厄除け、魔除け、招福、加護などの目的で、懐に入れて持ち歩いたり、祀ったり、家の中に貼ったりする。
しかし、護符として使われる他に、起請文を書く用紙として使わるようにもなった。既に述べたように、熊野牛王符にはカラス文字が書かれ朱印が押してあるのだが、その裏面に起請文(誓約)を書くのである。
裏面に誓約事を書いて誓約書とする。起請文の書かれた熊野牛王符は「熊野誓紙」とも呼ばれた。
熊野牛王符に誓約を書くと、熊野の神に誓ったことになる。そして、もし書いた誓約を破ったなら「熊野の神の使いであるカラスが三羽死に、破った本人も血を吐いて死んで地獄に落ちる」とされた。
いつから熊野牛王符の裏面に誓約を書いて起請文にするようになったかについても諸説あるようで、私には断定できない。
使ったと言われている例には、豊臣秀吉が死の床にあって、徳川家康や石田三成などの五大老と五奉行に熊野牛王符に起請文を書くよう命じたという話もある。自分亡き後の息子の秀頼への忠誠を誓わせたのである。
起請文は遊廓でどう使われたか
さて、この熊野誓紙だが、江戸時代になると遊女と客との間で取り交わされるようになった。実際にどのように取り交わされていたのか。
それは、古典落語の『三枚起請』という噺(はなし)を聴くと、だいたいわかってくる。『三枚起請』の筋をごくごく簡単に述べてみよう。
『三枚起請』は、江戸時代の遊廓が舞台の噺である。
ある遊女が、馴染み客に、
「年季奉公が明けたら、あなたと結婚します」
という起請文を書いて渡した。
もちろん熊野牛王符の裏面に書いた起請文、熊野誓紙である。それを受けとった客は、遊女に本気で惚れられたと思い、すっかりのぼせて、その気になって、その遊女のところへ客として足繁く通っている。
しかしある日、自分がもらった起請文と同じ内容のものを、同じ遊女から別の二人も受けとっていることを知ってしまう。起請文が自分の分を合わせて三人分、三枚見つかったので『三枚起請』である。
そこで、その二人と一緒に、起請文を書いた遊女のところへ行き、どうして同じ起請文を書いて、それぞれに渡したのか問い詰める。
遊女は、ごまかそうとしていたが、やがて観念する。そして、
「客の男どもをその気にさせて金を稼ぐために嘘の起請文を書き、自分のもとに通わせていた」
と、白状する。
そこで、だまされていた男の一人が頭に血が上って詰め寄り、こう怒鳴る。
「起請文に嘘を書くと熊野のカラスが三羽死ぬと言うだろう」
すると遊女は、開き直ってこう言う。
「私は世界中のカラスを殺したいんだよ」
それを聞いて男が、
「世界中のカラスを殺してどうしたいんだ」
と言うと、
遊女は答える。
「朝寝がしたいんだよ」
これが、落語『三枚起請』の極めて大まかな筋である。
以上の説明をもとに都々逸「三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい」の解釈に戻ろう。
【説五】の、「遊女が『色々な客と交わした起請文(誓約書)を反故にして、好きな人と朝寝がしたい』と歌っている。」という解釈は、こうした背景を知って始めて理解できるものだ。
誓約を破ると熊野のカラスが死ぬと言い伝えられていることから、この都々逸にある「カラスを殺し」という文句は、他の客に渡した起請文を反故にする、つまり「他の客との誓約を破る」という意味になる。
「主と朝寝がしたい」という文句は、「(誓約を交わした他の客たちではなくて)本当に好きなあなたと朝寝がしたい」と、なる。
これが【説五】の解釈である。
実際に江戸時代の遊廓ではこうした起請文がよく交わされていたようで、こんな川柳も伝わっている。
約束に 烏に指の 血を吸われ
起請文には、指を切って遊女と客の血判を押して誓いを立てたようであり、そのことを「烏に血を吸われ」と表現しているようだ。
また、
熊野では 今日も落ちたと 埋めてやり
という川柳もある。
熊野では頻繁にカラスが死んで空から落ちてくるので、毎日のように埋葬しているという意味であろう。
つまり、誠に罰当たりなことではあるが、熊野牛王符に書かれた誓約は毎日のように破られていて、それを揶揄しているわけだ。
「もし誓約を破ったら熊野の神の使いであるカラスが三羽死に、破った本人も血を吐いて死に地獄に落ちる」という信仰も、やがていい加減なものになり、書かれた誓約が守られなくなっていったと受け取れる。
だが、別の見方をすれば、嘘の起請文を書いてでも遊女は客をとって金を稼がなければならず、それだけ生きていくことに必死で、きつい境遇だったとも考えられるのではないだろうか。
以上、起請文とその遊廓での使われかたについて説明した。
/三千世界の/鴉を殺し/主と/朝寝がしてみたい/
↑ ↑ ↑ ↑
説明済 説明済 説明済 説明済
解釈を整理する
これで、この都々逸、
三千世界の カラスを殺し
主と朝寝が してみたい
についてなされている様々な解釈の紹介と、その説明を終えたので、整理して確認しよう。
まず、「主と朝寝がしてみたい」の「主」は誰のことなのか。その解釈は下記の三つである。
【説一】
この都々逸の作者は遊女の客の男であり、「主」というのは遊女である。
【説二】
この都々逸の作者は遊女であり、「主」は、その遊女の間夫とか、惚れた男のことである。
【説三】
【説二】と同じで、「主」は遊女が惚れている男のことである。しかし作者は別人で、遊女の気持ちを汲み取った誰かが作った。
次に、どうしてカラスを殺したいのか。「カラスを殺す」とはどういう意味なのかについては、五つの説がある。
【説一】
好きな人とゆっくり朝寝をするために、早朝からうるさく鳴くカラスを殺したい。
【説二】
鳴いて朝を告げるカラスを殺してしまい、一緒に寝ている惚れた相手が朝が来たことが分からないようにして、このまま朝寝を続けたい。
【説三】
好きな人とゆっくり朝寝をするために、世の中の様々な面倒事から解放されたい。
【説四】
佐幕派を一掃し(皆殺しにして)勤王の志士として大望を遂げ、その後で、好きな人とゆっくり朝寝がしたい。
【説五】
遊女が「色々な客と交わした起請文(誓約書)を反故にして、好きな人と朝寝がしたい」と唄っている。
さて、この中でどの解釈が正しいのであろうか。
あっさりと結論を言ってしまえば、どれが正しいかなんて私に分かるわけがない。
いや、私だけでなく、専門の研究者であっても、推論はできても断定はできないのではないだろうか。解釈の有力な手がかりとなる資料でも発見されれば別だが、現段階では分からないと思う。
しかし、正しい解釈など気にすることはないのである。正しい解釈が分からなくても、各自が勝手に自分の好きな解釈で楽しめばいい。それが都々逸というものだと思う。
だが、そうとは言いながらも、私はこの都々逸にどうしてこれほど多くの解釈が生じてしまったのか、その理由に興味がある。そして、多くの解釈が生じた理由を探ることによって、その深みが見えてくるような気もしている。
そこで、多くの解釈が生じた理由を考えながら、私なりの推論を行いたいと思う。
ここまでは事実や資料、あるいは見聞に基づいて記述してきたが、この後に書くのは私の憶測や想像、あるいは空想にすぎない。そのことをお断りしておく。
三千世界の三枚起請
この都々逸に多くの解釈が生じてしまった原因の一つは、既に述べたように、作者を高杉晋作とする説が、有名過ぎるからではないだろうか。
この都々逸の作者は遊女であり、「主」は、その遊女の間夫とか、惚れた男のことである」と解釈されるのが自然だと思われる。
しかし、高杉晋作が作ったという説が有名になり影響力が強すぎるため、作者は男であり、男が遊廓の客の立場で唄ったものであるという先入観に支配されるようになった。
そこから、[主]というのは敵娼である遊女のことだと解釈されるようになり、客の男が遊女に向かって「主と朝寝がしてみたい」と唄っているのだという別の解釈が生まれたのではないかと思う。
また、それ以上に様々な解釈が生じさせている大きな要因は、この都々逸の解釈に、先ほど紹介した落語『三枚起請』が強く影響しているからだと考える。
『三枚起請』の筋を思い出していただきたい。この噺は最後「カラスを殺して朝寝がしたいんだよ」で落ちる。
実際に私が寄席で聴いたこの噺の構成を紹介してみよう。あくまでも私が聴いた落語でのことだが、枕でこの都々逸について触れた後で、『三枚起請』の話の本題に入って行くとういう流れであった。
枕で「『三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしてみたい』なんて都々逸がありますが〜」と、いった感じで話をはじめ、噺の舞台となっている当時の状況の説明などをしながら『三枚起請』の本題に入っていくのである。
つまり、この都々逸の「朝寝」で噺を落とすため、冒頭でそのことに触れて予備知識を客に与えてから本題に入っていく構成になっていた。
古典とはいえ落語は同じ名称の演目でも、一門によって少し話が違っていたり、落語家個人によって様々なアレンジを加えることも多い。ましてや、枕を含めた全体構成などは、演者によって違うのは当たり前だし、同じ演者でも時と場合によってもやり方は異なる。そのため、私が聴いたものを代表例として挙げるのは憚れる。
さらに、断っておかなければならないのは、私が聴いたのは東京の寄席でやっていた「江戸落語」としての『三枚起請』である。後で取り上げるが、この噺はもともとは「上方落語」のネタであり、後に江戸落語に移入されたようである。もとの上方落語と、移入された江戸落語では違いがあると思われる。
そういった前提を踏まえた上でのことだが、色々と検索などをしてみても、『三枚起請』は、上記と類似の構成でやられていること多いようではある。
『三枚起請』の落語に、この都々逸[三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしてみたい]が、利用されている場合が多いようなのだ。
この落語は、遊女が「カラスを殺してどうしたいんだ」と聞かれて「朝寝がしたいんだよ」と答えて落ちるわけだが、このオチは言外に、
「あの有名な都々逸でも『三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしてみたい』って唄われているじゃないか、それと同じように私も(カラスを殺して朝寝がしたいんだよ)」という意味が含まれているような、そんな落とし方をしているのではないかと思う。
『三枚起請』の落語と、[三千世界〜]の都々逸が切ってもきれない間柄になってしまっているのだ。まるで『三枚起請』の噺は、都々逸[三千世界〜]を前提にして作られているかのようである。
『三枚起請』の噺は、はじめから都々逸[三千世界〜]をサゲに使う前提で作られたものなのか、それとも、本来は[三千世界〜]とは、まったく関係がなく作られ、後に結びついたのか。
私は指摘したい。
「落語『三枚起請」のオチと、都々逸[三千世界〜]が言わんとしている内容は、本来まったく異なる」
と。
もともとこの二つは関係がなく成立し、後に結びついたのではないかと考えている。
落語『三枚起請』の方は、問い詰められた遊女が「朝寝をするために起請文を破ってカラスを殺すんだ」と、強がりを言うオチである。
ここで言う朝寝とは、朝の睡眠のことであろう。睡眠の妨げになる、うるさいカラスを殺すのである。話の流れから考えれば、好きな客と一緒の朝寝でなくてもいい。一人でゆっくり睡眠がとりたいという意味であっても問題はない。
これに対して都々逸[三千世界〜]で唄われているのは「好きな人と朝寝をするためにカラスを殺したい」というものである。こちらの朝寝は逆に必ずしも睡眠である必要はないだろう。好きな人の隣で一緒に寝ていることが重要である。朝寝がしたいというよりも、好きな人と一緒にいることの方が重要だ。
この違いがあるにも関わらず、都々逸[三千世界〜]が、落語『三枚起請』のサゲに使われるようになっている。そのせいで、[三千世界〜]の解釈が『三枚起請』の噺の方に引っ張られていったように、私には思えるのだ。
落語の影響を受けて、だんだんと都々逸[三千世界〜]の内容が『三枚起請』のオチと同じだと誤解されるようになり、いつしか朝の睡眠をするためにカラスを殺すという意味だと考える人が多くなっていったのではないだろうか。
落語『三枚起請』は、この都々逸がなくても本来は落ちる噺である。熊野牛王符の起請文について知っていて、かつ、カラスが早朝から鳴いてうるさく朝寝を邪魔するものと理解していれば、この都々逸を知らなくても落語『三枚起請』は成立する。
落語を聴く側に、[起請文に嘘を書いた]→[カラスが死ぬ]→[早朝が静かになる]→[朝寝ができる]という流れが理解されていれば、この都々逸がなくても『三枚起請』落ちるのである。
この噺が成立した頃の人たちは、いわば常識として起請文のことを知っていた。しかし、昔の聴衆は知っていた起請文のことも、だんだんと忘れ去られ、聴く側がこの流れを理解しなくなった。そこで、それを理解してもらうために、この都々逸を使うようになったとは考えられないだろうか。
当初は使われていなかったが、ある頃から使われるようになったと推測する。
さて、この推測について検討するには、まず、落語『三枚起請』と都々逸[三千世界のカラスを殺し主と朝寝がしたみたい]は、どちらが先に作られたのか明らかにする必要があるだろう。
そこで、少し調べてみた。
その結果については、また稿を改めて述べたいと思う。