有名な都々逸を解釈することによって、都々逸とは何かを学び考え、都々逸の創作に役立てていきたいと思う。有名であるということは、それだけ人々に受け入れられたという証である。
都々逸らしさというものも、そういった都々逸によって形作られてきたものであろう。有名な都々逸を解釈して学ぶことによって、都々逸らしさとは何かも、だんだんと見えてくるように思う。
そこで、「有名都々逸に学ぶ」の初回として、
三千世界の カラスを殺し
主と朝寝が してみたい
を取り上げたい。
これは、作者が幕末の志士の高杉晋作だと言われていることもあり、有名さにおいて少なくとも五指には入る都々逸であろう。最も有名な都々逸かもしれない。初回に取り上げる作品として相応しいものと考える。
そして、この都々逸が好きだという人も多いようだ。しかし、有名で好きな人が多いにもかかわらず、色々な解釈が生じていて、様々な受け取り方をされている作品でもある。
有名で好きな人も多いのに、色々な解釈があるというのは不思議なことでもある。この作品が好きだという人は、いったいどの解釈に基づいて好きなのか興味のあるところだ。
この作品が広く知られている理由は、作者が高杉晋作だと言われていることもあるが、落語『三枚起請』のサゲに使われていることもあるだろう。だが、そのことが、色々な解釈を生じさせている原因にもなっているように思う。
そこで、この都々逸についてなされている様々な解釈の検討なども行いながら、作品の魅力を探ってみたい。
朝寝か添い寝か
解釈の前提として、この都々逸は遊廓の遊女と男との関係から生まれたものであることは確認しておきたい。
遊郭や遊女とまったく離れた解釈もできないことはないが、そういった解釈はほとんど目にしたことがないので、それはなしとする。
男というのは遊郭の客と思われるが、客ではない男の可能性もなくはなない。また、客が作った都々逸なのか、遊女の方が作ったのかについては両説あるので後ほど検討する。
「朝寝」の部分が「添い寝」となって伝えられている場合もある。
三千世界の カラスを殺し
主と添い寝が してみたい
というものだ。
「朝寝」か「添い寝」か、どちらかが、どちらかに改変されたものであって、まったく別に作られたということはないだろう。
現段階では、どちらが本来の文句なのかわからないが、「朝寝」としているものを比較的多く見かけるので、とりあえず「主と朝寝がしてみたい」のほうを使って考察を進めていきたいと思う。この問題についても後ほど検討したい。
三千世界は十億世界
では、冒頭の「三千世界の」から解釈をはじめよう。三千世界とは、仏教用語であり「三千大世界」とも言われる。これがどれほどの数の世界なのか、具体的に理解しなくても、「途方もなく多くの数の世界」というような意味だと思っておけば、解釈として問題ないかもしれない。
しかし、途方もなく多くの世界というのが、どれくらい数の世界なのか知っておくことは、この作品のスケール感をつかうむために有効かもしれない。また、単純に三千の世界ではないことを確認するためにも、その数を明らかにしておこう。
仏教的には、我々の住むこの一つの世界を「小世界」とし、これが千集まって「一小千世界」になる。さらにそれが千集まって[一中千世界]、またさらにそれが千集まって[一大千世界]となる。
一大千世界は、小・中・大の三種の千世界からなるので「三千世界」となる。
要するに、
小世界が一個で、一小世界(我々が住むこの一つの世界)
【1小世界】
一小世界が千個集まって、一小千世界(千世界)
【1,000小世界】
一小千世界が千個集まって、一中千世界(百万小世界)
【1,000×1,000=1,000,000小世界】
一中千世界が千個集まって、一大千世界(十億小世界)
【1,000,000×1,000=1,000,000,000小世界】
ということだ。
言い換えれば、小世界が十億集まっているのが[一大千世界]ある。
そして、ここは少しわかりにくいかもしれないが、「一大千世界」は、小世界・中世界・大世界の三種の千世界からなっているので「三千世界」とも言うのである。
つまり「三千世界」と「一大千世界」は同じことの別な言い方だ。
「三千世界」とは、我々の住むこの一つの世界(小世界)が、十億集まったものであるり、仏教的には、一人の仏で教化できる範囲が三千世界であるとされている。
だから「三千世界のカラスを殺し」というのは、
「十億のそれぞれの世界に数多く存在しているすべてのカラスを片っ端から根こそぎ殺して」
という意味になる。
三千世界という言葉を使った作者の意図としては、このようなスケールの大きなことを持ち出して、それだけ強い想いで「主と朝寝がしたい」ということを言いたいのであろう。
さらに、たかが朝寝くらいのことで、三千世界などという大袈裟な言葉を持ち出すことで滑稽さ、おかしさも出しているのだと思う。滑稽なほど途方もなく大きな喩えということだ。
この「ちょっと滑稽でおかしな感じ」は都々逸にとって大事なことだと思うが、何気なくあっさりと表現するのはなかなか難しいかもしれない。
そういった意味でもこの作品は名作なのであろう。
お主は誰だ何者だ?
次に解釈を試みるべき文句は、順序でいえばの「カラスを殺し」になる。カラスを殺しとはどういう意味なのか。
しかしその前に「主と朝寝がしてみたい」の「主(ぬし)」について検討しておきたい。
この「主」を誰だと考えるかについても解釈が割れていることを、先に頭に入れておいた方が先入観なしで解釈と向かい合えると考えるからだ。
最初に述べたように、解釈の前提として、「この都々逸は遊廓の遊女と男の関係の中から生まれたものである」ことを前提としてる。そのため「主」が誰なのか明らかになれば、「主と朝寝がしてみたい」と唄っている、この都々逸の作者が誰なのかも判明するであろう。
では、それらの解釈について、私が見聞きしたことがある三つの説を挙げる。
【説一】
「主」というのは遊女で、この都々逸の作者はその遊女の馴染客だ。
つまり、客の男が遊女に対して「おまえと朝寝がしてみたい」と、唄っているという説になる。
この都々逸を作ったのは、高杉晋作であるという説はかなり有名であるが、他にも久坂玄瑞が作ったという説や桂小五郎説もある。高杉でも久坂でも桂でも、立場は遊廓の客であるため、この説と矛盾しない。
「主」は、作者のお気に入りの遊女ということなる。
もちろん、作者は高杉でも久坂でも桂でもなく、無名の遊廓の客の男であってもかまわない。
本当に高杉晋作の作かどうかという問題に関しては、どのみち私には確認する手立てがないので、その真偽の考察は行わない。
【説二】
この都々逸の作者は遊廓の遊女であり、「主」は、その遊女の間夫とか、惚れた男のことである。
遊女が惚れた男に対して「あなたと朝寝がしてみたい」と、歌っているという説である。この場合は惚れた男というのは馴染客と考えられるが、客ではない男かもしれない。たとえば遊女になる前に将来を約束した男かもしれない。
いずれにしても、この説であれば作者は高杉や久坂や桂ではなくなる。
ちなみに、「主」という言葉は男性に対して使われることもあれば、女性に対しても使われる。女性が親密な間柄の男性を、主とか、主さんと呼ぶことはよくあった。
他の都々逸でも惚れた男を「主」と表現しているものがけっこうあるので例を挙げてみよう。
唐傘の 骨の数ほど 男はあれど
広げてさせるは 主ひとり
よその夢見る 浮気な主に
貸してくやしい 膝まくら
妻と思うて いる身が主に
文を変え名で 書くつらさ
ただし、主は男とは限らない。女の場合もある。
私しや春雨 主や野の花よ
濡れるたびごと 色を増す
例に上げた都々逸に春歌が多くなってしまったがご容赦いただきたい。都々逸は春歌ばかりではないが、春歌も欠かせないものと私は考えている。
【説三】
説二と同じで「主」は遊女が惚れている間夫とかそれに類する男のことであるが、作者は別人である。
遊女が惚れた男に「あなたと朝寝がしたい」と歌っている都々逸ではあるが、作ったのは遊女本人ではなく、遊女の心情を誰か別の人が察して代わりに作ったという説だ。
他人の気持ちになりきって詩歌を作るのはよくある。その他人がが異性でも同性でもある。だから、真偽はともかくとして、これも無理な説ではない。
また、作者が高杉晋作説や久坂玄瑞説、桂小五郎説もなどをとりながら、「主」を【説二】と同じように男と考えるなら、この説になるであろう。
【説二】の逆、つまり男の気持ちを遊女が汲んで作ったという解釈も、理屈の上ではありうる。しかし、そういう解釈は見聞きした覚えがない。また、私にとっても考えにくい解釈なので、それはなしとする。
つまり、「以上の三つの説の内のどれか」ということになる。
私の導き出した結論は、【説二】か【説三】であり、これは遊女の心情を歌った都々逸だと考える。
なぜ【説一】の「客が遊女に対して唄った説」ではないのか。その説明は、この都々逸の先の文句の解釈が関係してくるので、今は説明を保留し、次に「朝寝がしてみたい」について検討する。
/三千世界の/鴉を殺し/主と/朝寝がしてみたい
↑ ↑ ↓
説明済 保留 次節で説明
晴れて所帯をもって朝寝をするのか
「朝寝がしてみたい」で問題になるのは、「朝寝」を遊廓の中でしたいのか、外でしたいのかということである。
一般的には、遊廓の中で朝寝したいと解釈されるだろう。しかし、遊廓では客を朝早く(卯の刻・だいたい朝六時)に帰す決まりになっていたので、客と遊女が一緒にのんびり朝寝することはできないはずだ、という指摘もある。
この指摘に忠実に解釈すると、朝寝をするには郭を出なければならなくなる。つまり、一緒に朝寝ができるのは、遊女の年季が明けて郭を出て、晴れて二人が夫婦になってからだ。
つまり、この「朝寝がしてみたい」には、「年季が明けたら好きな人(主)と所帯を持ちたい」という想いが込められているということになる。
さてどうだろうか。早朝に客を帰す決まりは、確かに郭にあったようだが、この都々逸はあくまでも願望を唄っているわけであり、必ずしも現実に可能であることが必要なわけではない。また、「居続け」といって、客が連泊することもあり、その場合は一緒に朝寝もできたのではないだろうか。
この問題も、後でまとめて考えるために今は保留として、次に中七の「カラスを殺し」について検討しよう。
/三千世界の/鴉を殺し/主と/朝寝がしてみたい/
↑ ↓ ↑ ↑
説明済 次節で説明 保留 保留
殺されるカラスの身にもなってみろ
この都々逸の作者は、どうしてカラスを殺したいのか。カラスを殺すとはどういう意味なのか。五つの説を挙げる。
【説一】
好きな人とゆっくり朝寝をするために、早朝からうるさく鳴くカラスを殺したい。
カラスが早朝からカアカア鳴いてうるさいので、目が覚めてしまい、好きな人と朝寝をするのに邪魔だから殺したいという説である。
【説二】
鳴いて朝を告げるカラスを殺してしまい、一緒に寝ている惚れた相手が朝が来たことが分からないようにして、このまま朝寝を続けたい。
【説一】と類似している説であるが、鳴き声がうるさくて寝ていられないから殺すのではなく、鳴き声で朝が来たと主に分かってしまうのを防ぐために殺すというものだ。
「寝る」という言葉の意味が睡眠のことではなく、「朝が来ても一緒に寝床に居続ける」という意味ならこの説の方が理に適っている。
【説一】とは、殺す直接の理由は異なるが、朝寝を妨害するカラスを排除するという意味では同じである。
またこれと似た別説に、カラスを朝をもたらす鳥と考え「三千世界のすべてのカラスを殺して朝が来なくなるようにし、それで主と寝続ける」というような説も見た覚えがある。
しかし、朝が来なくなってしまったら、朝寝ではなくなってしまうので、成り立たない説ではないだろうか。それに、朝になって明るくなってからも自堕落に寝続けているという退廃的な感じがしたほうが都々逸として面白いのではないかと私は思う。
【説三】
好きな人とゆっくり朝寝をするために、世の中の様々な面倒事から解放されたい。
カラスというのは、片付けなければならない厄介な問題や、色々と面倒な諸事万端の喩えだという説だ。「カラスを殺し」というのは、そういった面倒事を放棄するか、あるいは処理を済ませ「すっかり解放されて、好きな人とのんびり朝寝がしたい」という意味だという説である。
【説四】
佐幕派を一掃し(皆殺しにして)勤王の志士として大望を遂げ、その後で、好きな人とゆっくり朝寝がしたい。
この都々逸の作者が高杉晋作、もしくは久坂玄瑞や桂小五郎であるという説から、「カラスというのは佐幕派などの敵対勢力のことである」という解釈を行うものであろう。【説三】の解釈から派生したものとも考えられる。
【説五】
遊女が「色々な客と交わした起請文を反故(ほご)にして、好きな人と朝寝がしたい」と歌っている。
さて、この説は「起請文」がどのようなもので、それが遊廓でどうに使われていたかを知らないと理解できないであろう。
そこで「起請文」とは何か、稿を改めて簡単に説明したいと思う。