都々逸の歴史のおさらい
都々逸は「神戸節(ごうどぶし)」から生まれたと以前に述べたが、その神戸節は「よしこの節」から生まれた。さらに、よしこの節は「潮来節(いたこぶし)」から生まれた。江戸時代のことである。
これらの歌、音楽をひっくるめて、いちおう「歌謡」と読んでおこう。
「民謡」と呼んでもいいのだが、以前にも書いたように、民謡という言葉は「Folk Song」の訳語である。明治以後に作られた言葉だ。当然、これらの歌が成立した時代には存在していなかった言葉である。
それでも「民謡」と呼ぶのが分かりやすくていいのか、「歌謡」がいいのか、あるいは「俗謡」か。
私としても、どう呼ぶべきか判断が揺れているが、ひとまず今は「歌謡」と呼んでおく。
さて、それらの歌謡を古い順に列記すれば、
潮来節→よしこの節→神戸節→どどいつ節(都々逸の原型)
ということになる。
潮来節
潮来節は、今の茨城県、常陸国の潮来村から起こり、江戸時代後期に全国的に広まった。その流行は相当に大きなもので、十返舎一九や小林一茶などの作品にも出てくるようである。
また潮来節の影響によって、日本各地に数多くの歌謡を派生させた。その中の一つが「よしこの節」である。
よしこの節
よしこの節は何といっても四国は徳島の盆踊り、「阿波踊り」の歌として有名である。
そして、よしこの節が名古屋の宮の宿に伝わり「神戸節」を生み、そこから「どどいつ節」が誕生し、やがて都々逸となった。
今様と七七七五調
ではここで、都々逸の音数律七七七五について考えてみたい。
神戸節も都々逸も、もちろん七七七五の音数律である。
七七七五の歌謡はもの凄く種類が多い。江戸時代の中後期くらいから、七七七五で歌を作ることが全国的に(おそらく爆発的に)流行したからである。
また、七五を繰り返す七五調も多い。歌謡にはさまざな音数律があるが、七五を繰り返す七五調と、都々逸と同じ七七七五調の二種類が圧倒的に多くなっている。
七五を4回繰り返す形式、つまり七五七五七五七五の音数律は「今様(いまよう)」、または「今様調」とも呼ばれる。
平安時代末期に、後白河法皇の命によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、この形式の歌が多い。後白河法皇は子どもの頃から今様を好んだと伝えられるので、どんなに遅くても法皇が子どもの頃から今様の歌謡は盛んに歌われていたのであろう。
一方、都々逸と同じ七七七五という音数律は、安土桃山時代に生まれた「隆達節(りゅたつぶし)」にその萌芽があるようだ。
隆達節は、堺の「高三隆達(たかさぶりゅうたつ)」という人(日蓮宗の僧から後に還俗)が創始し、戦国時代末期から江戸時代初期頃まで流行したようである。
ただし「隆達節」のほとんどの歌詩は七五七五、つまり「今様」の半分の「半今様」でできている。一番多いのがその半今様で、その次に七七七七や、五七五七七などの音数律となっている。
しかし、七七七五の歌詞も散見されるため、「隆達節」をして七七七五調の嚆矢と考えてよさそうである。
ところで、少々脱線するが、隆達節で特に有名な歌詩は、
ただ遊べ 帰らぬ道は 誰も同じ
柳は緑 花は紅(くれない)
であろう。
また類似の歌詩で
梅は匂ひ 花は紅 柳は緑 人は心
というのもある。
これらは、中国の宋時代の詩人、蘇東坡が春の景色を
柳は緑 花は紅 真面目(しんめんもく)
と詠んだものを流用している。
「真面目」は、ここでは「まじめ」と読まずに「しんめんもく」と読む。意味は「そのもの本来の有り様」のことである。
つまり「柳の葉の色は緑色で、花の色は紅色である。その当たり前のことこそが、すべての本質だ」というような意味になろうか。
その当たり前の本質に気づいて感嘆している詩であろうと思う。
この言葉は僧侶、特に禅宗の僧侶に好かれているようで禅語としてよく引用される。いかにも禅仏教的な本質の捉え方を表しているようだ。
見るほどに みなそのままの 姿かな
柳は緑 花は紅
と詠んでいる。
これは蘇東坡の詩を、そのまま分かりやすく書き直しているだけのようにも思える。
では、隆達節の「ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ 柳は緑 花は紅」は、どういう意味だろうか。
そのまま解釈すれば
「ひたすら今を楽しんで遊べばいい、誰の人生も一度きりで、戻ることはないのだから。それは、柳は緑、花は紅であることと同じで、ありままの本質である」
ということになろうか。
「梅は匂ひ 花は紅 柳は緑 人は心」の方は、
「梅は匂うことが大事 花は紅であることが大事 柳は緑であることが大事 人は心が大事」
という意味か、あるいは、
「梅は匂いが素晴らしい 花は紅が素晴らしい 柳は緑が素晴らしい 人は心が素晴らしい」
だろうか。
私は前者の意味だと思う。
さて「ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ 柳は緑 花は紅」の方の歌詩についてだが、これは蘇東坡の詩から流用しているだけでなく『梁塵秘抄』の歌とも関係しているのではないかと考えている。
先述した後白河法皇が編ませた『梁塵秘抄』である。そこに収められている歌の中でも特に有名なのが、
遊びをせんとや 生れけむ
戯れせんとや 生れけん
遊ぶ子供の 声聞けば
わが身さへこそ ゆるがるれ
である。
この歌は一般的には次のように解釈される。
私は遊びをしようとして、生まれてきたのだろうか。
戯(たわむ)れをしようとして、生まれてきたのだろうか。
無邪気に遊んでいる子どもの声を聞くと、
私の身体までも、つられて揺らぎ動いてしまいそうだ。
しかし、この歌を作ったのが「白拍子(しらびょうし)」と言われる女性であることから、別の意味に解されることもある。
つまり、白拍子は舞いなどの芸能を生業としながらも、遊女のような存在でもあったからだ。そこから、この歌にある「遊び」や「戯れ」を、性的な交わりに解す場合もある。
確かに、そういった意味も込めて歌っていた白拍子もいたかもしれないが、私は概ね一般的な解釈でよいと考えている。
「自分は何のために生まれたきたのか。無邪気に遊ぶ子どもの声を聞いて、考えさせられてしまい、さまざまな思いに心が揺るがされている」
以上を踏まえて、隆達節の
ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ 柳は緑 花は紅
である。
この歌は『梁塵秘抄』の、その歌「遊びをせんとや 生れけむ〜」への返し歌でもあるのではないかと考える。
隆達節ができた戦国時代は、いつ命を落とすか分からず、人の心も道徳も荒廃していたであろう。
そのため『梁塵秘抄』のその歌に対して、
「明日をも知れぬ命なら、思い悩み迷うことはなく、ただ今を遊び楽しむだけだ。それが人生の本質である」
と、歌って返しているのではないだろうか。
少々ではなく、大幅に脱線してしまったが、ここで本題に戻ろう。
七七七五調の音数律を確立し普及させたのは「隆達節」の後を受けた「弄斎節(ろうさいぶし)」だと考えられている。
弄斎という名の僧侶が隆達節を修得した後、それを変化させて始めたものが「弄斎節」のようだ。
ここから七七七五調は徐々に日本各地へ広まってゆき、やがて全国的な大流行と定着に至る。
七五七五七五七五調を今様と呼んだ場合は、七七七五を近世調と呼び、対比させることもあるようだ。また七七七五調は、近世小唄調とも甚句調とも言われることがある。
七七七五歌謡の歌詩
七七七五調の歌謡と都々逸の関係について考えてみたい。
改めて強調するが、七七七五の音数律は都々逸に特有のものではない。むしろ都々逸は、七七七五の音数律を持った歌謡の中では比較的新しいもの、後から生まれたものである。
では、七七七五調の歌謡の歌詩の例を見てみよう。
潮来節の元歌とされる有名な歌詩には下記のものがある。
潮来出島の まこもの中に
あやめ咲くとは しほらしや
あるいは
潮来出島の まこもの中に
あやめ咲くとは つゆ知らず
(いたこ・でじまの)(まこもの・なかに)
(あやめ・さくとは)(しほらしや)
(いたこ・でじまの)(まこもの・なかに)
(あやめ・さくとは)(つゆしらず)
どちらにしても、潮来節は都々逸とまったっく同じ七七七五、それも(三・四)・(四・三)・(三・四)・(五)の七七七五の音数律である。
いや逆である。成立した順序からいえば「都々逸は、潮来節と同じ七七七五となっている」と、言うべきであろう。
次に「よしこの節」だが、
「よしこの節は、阿波踊りの歌として知られている」
と、言うと、つい有名な、
踊る阿保に 見る阿呆
同じ阿保なら 踊らにゃそんそん
に着目してしまうが、七七七五はそこではない。その部分は唄囃子と呼ばれるところであって歌詩ではない。歌詩は、
阿波の殿様 蜂須賀様が
今に残せし 阿波踊り
笛や太鼓の よしこのはやし
踊り尽きせぬ 阿波の夜
の部分である。
(あわの・とのさま)(はちすか・さまが)
(いまに・のこせし)(あわおどり)
(ふえや・たいこの)(よしこの・はやし)
(おどり・つきせぬ)(あわのよる)
きちんと(三・四)・(四・三)・(三・四)・(五)の七七七五になっている。
都々逸と歌謡に違いはあるのか?
七七七五の歌謡の歌詩を読んでいると、良い悪いとはまったく関係なく、内容的に都々逸っぽい感じがするものと、都々逸らしくないものがある。
都々逸らしさが感じられないものについては、都々逸として作られたわけでないので当たり前のことだ。逆に都々逸っぽい歌詩を読むと、そうした歌謡と都々逸の違いが分からなくなってくる。
たとえば有名な歌謡として「ソーラン節」の歌詩を例に挙げてみる。
ソーラン節は別名「鰊場作業唄(にしんばさぎょううた)」といい、青森県野辺地町で歌われていた「荷揚げ木遣り唄」から生まれたと言われる。
沖のカモメに 潮時問えば わたしゃたつ鳥 波に聞け
ニシン来たかと カモメに問えば わたしゃたつ鳥 波に聞け
男度胸は 五尺の体 どんと乗り出せ 波の上
沖のカモメの 鳴く声聞けば 船乗り稼業は やめられぬ
なかなかにいい感じだが、特に次の歌詩は都々逸の名作のようにさえ思える。
今宵一夜は 緞子の枕
明日は出船の 波枕
(こよい・いちやは)(どんすの・まくら)
(あすは・でぶねの)(なみまくら)
緞子の枕の、緞子(どんす)というのは、童謡『花嫁人形』の歌詩に、
金襴緞子の 帯しめながら 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
とある、その緞子のことだ。
詳しくは調べていただくとして、要するに高級な織物のことであり、その織物でできた贅沢な枕が緞子の枕である。つまり遊廓の枕だと思われる。
明日出港すれば厳しく危険な船上生活に入るのだから、せめて、漁に出る前の今日の夜は、遊廓でたっぷり楽しんで贅沢な寝具で寝る。
その今日と明日の環境の激変を「緞子の枕」と「波枕」の対比で表し、さらに漁師の威勢の良さをも表現した技巧的な文句だと思う。
また、
沖のカモメが もの言うならば
便り聞いたり 聞かせたり
も、都々逸のような雰囲気がある。
漁で沖に出て、家に残した愛妻(あるいは恋人)に会えない。もしも空を自由に飛べるカモメが喋れるならば、私と愛妻との間を行き交ってお互いの気持ちを伝えてくれるだろうか。
というような意味だと思われる。
では最後に有名な都々逸、私が一番好きな都々逸を「都々逸と歌謡の関係を解く手がかり」としてあげてみたい。
恋に焦がれて 鳴く蝉よりも
鳴かぬ螢が 身を焦がす
これは、元は別の歌謡の歌詩として歌われていたのだが、後に都々逸として歌われるようになったものである。
時代によって色々な歌謡に取り込まれては、歌の節を変え、文句も少し変えながら歌い継がれてきて、都々逸にもなったということだ。
このように、もとは別の歌謡の歌詩だったものを歌い変えて、都々逸にした例はけっこう多いようである。
このことは特にどうということはないようにも思える。しかし、実はここが都々逸の特徴として非常に重要なところだと私は考えるようになってきている。
都々逸がある時期に大流行した理由も、急速に人気を失った理由も、ここに関係しているように思えているのである。
それを説明するのはなかなか難しく骨が折れそうだが、いずれ、まとめられれば述べてみたい。