都々逸と作詩

都々逸の学びと創作を中心に作詩関連や雑記、散歩写真など。

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『アルプス一万尺』と都々逸

アルプス一万尺』と都々逸

〜『ヤンキードゥードゥル(Yankee Doodle)』~『むこうのお山』~『アルプス一万尺』~『安曇節』~そして都々逸

 

夢に見るよじゃ 惚れよがうすい 真に惚れたら 眠られぬ

という都々逸がある。
似たものとして、

思い出すよじゃ 惚れよがうすい 思い出さずに 忘れずに

というのもある。

 

どちらも有名であり、どちらかが真似、いや影響されて作られたと考えられるだろう。

しかし似ているようだが、内容的には異なるといえばけっこう異なる。都々逸の構成としてはまったく同じだが、使っている言葉がほとんど違うからだ。同じなのは「惚れよがうすい」の部分だけで残りは違う。

そのため、偶然に似たものができた可能性もなくはない。

 

個人的には前者の方が好みだ。後者の方が深いことを述べているようにも思うが、ちょっと理屈っぽいような感じを受けてしまった。前者の方が軽妙さがあって都々逸っぽいように感じる。

 

私の好みはどうでもいいだろう。
ここから先が本題である。

前者の都々逸とほぼ同じ文句が『アルプス一万尺』の歌詩の中にあるのだ。
童謡、あるいは子どもの手遊び歌として知られる『アルプス一万尺』である。その歌詩に、なぜ都々逸が入っているのだろうか。

その歌詩を都々逸と言ってよいのだろうか。
もしよいのなら『アルプス一万尺』の歌詩は都々逸ということになってしまうのだろうか。

 

今回は、この問題を考察することによって都々逸とは何か、都々逸らしさとは何かを探り、都々逸学習の一助としたい。

 

 

アルプス一万尺』14番

 

アルプス一万尺』という歌は、アメリカ民謡で独立戦争の愛国歌『ヤンキードゥードゥル(Yankee Doodle)』に、日本語の歌詩がつけられたものである。

ヤンキー(Yankee)は、現在ではアメリカ合衆国の一部地域の人たち、あるいはアメリカ人全員を指す俗称であるが、この場合は独立戦争時にイギリス軍が植民地のアメリカの軍隊を指して言ったもののようだ。
ドゥードゥル(Doodle)は間抜けという意味なので「ヤンキードゥードゥル」は意訳すれば「間抜けな植民地軍」といったような感じの言葉だったのだろう。

当時はイギリスがアメリカの宗主国である。イギリス軍が植民地のアメリカの軍隊をバカにして唄った歌であった。

 

ところがなぜかアメリカ側の人たちはこの歌を気にいってしまい、アメリカ独立戦争が始まるとたくさんの替え歌を作った。もとは敵側のイギリスが自分たちをバカにして作った歌だったのに不思議なものだ。

そして戦争中の愛唱歌として盛んに唄われた。やがて『ヤンキードゥードゥル』はアメリカの愛国歌として定着したのである。

 

つまり、原曲と日本の『アルプス一万尺』の歌詩はまったく関係がないことになる。もっとも、替え歌はたくさん作られたようなので、今は忘れ去られた歌詩もあるだろう。中には少しは似たようなものもあったかもしれないが、根本的に原曲の歌詩との関係はないといえる。

 

曲にしても本来的に英語の歌詩に合うものであって、当たり前のことだが日本語の歌詩のためのものではない。ましてや、都々逸やそれと同じ七七七五の近世小唄調の音数律を考慮した曲ではない。日本語の歌詩は、半ば強引に原曲に合うように唄われているとも言えよう。

 

 

さて、『アルプス一万尺』の歌詩は29番まであるのだが、問題の都々逸と同じ歌詩が全体の中でどのように扱われているか検証するため、下記にすべて引用する。作詩者は不詳ということなので著作権の問題はないはずだ。

 

問題の都々逸は、いや、歌詩は14番である。

 

アルプス一万尺

01:アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを さぁ踊りましょ
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

02:昨日見た夢 でっかいちいさい夢だよ のみがリュックしょって 富士登山
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

03:岩魚釣る子に 山路を聞けば 雲のかなたを 竿で指す
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

04:お花畑で 昼寝をすれば 蝶々が飛んできて キスをする
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

05:雪渓光るよ 雷鳥いずこに エーデルヴァイス そこかしこ
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

06:一万尺に テントを張れば 星のランプに 手が届く
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

07:キャンプサイトに カッコウ鳴いて 霧の中から 朝が来る
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

08:染めてやりたや あの娘の袖を お花畑の 花模様
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

09:蝶々でさえも 二匹でいるのに なぜに僕だけ 一人ぽち
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

10:トントン拍子に 話が進み キスする時に 目が覚めた
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

11:山のこだまは かえってくるけど 僕のラブレター 返ってこない
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

12:キャンプファイヤーで センチになって 可愛いあのこの 夢を見る
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

13:お花畑で 昼寝をすれば 可愛いあのこの 夢を見る
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

14:夢で見るよじゃ ほれよが浅い ほんとに好きなら 眠られぬ
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

15:雲より高い この頂で お山の大将 俺一人
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

16:チンネの頭に ザイルをかけて パイプ吹かせば 胸が湧く
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

17:剣のテラスに ハンマー振れば ハーケン歌うよ 青空に
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

18:山は荒れても 心の中は いつも天国 夢がある
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

19:槍や穂高は かくれて見えぬ 見えぬあたりが 槍穂高
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

20:命捧げて 恋するものに 何故に冷たい 岩の肌
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

21:ザイル担いで 穂高の山へ 明日は男の 度胸試し
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

22:穂高のルンゼに ザイルを捌いて ヨーデル唄えば 雲が湧く
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

23:西穂に登れば 奥穂が招く まねくその手が  ジャンダルム
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

24:槍はムコ殿 穂高はヨメご 中でリンキの 焼が岳
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

25:槍と穂高を 番兵において お花畑で 花を摘む
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

26:槍と穂高を 番兵に立てて 鹿島めがけて キジを撃つ
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

27:槍の頭で 小キジを撃てば 高瀬と梓と 泣き別れ
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

28:名残つきない 大正池 またも見返す 穂高岳
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

29:まめで逢いましょ また来年も 山で桜の 咲く頃に
ランラララ ラララ ランラララ ラララ  ランラララ ララララ ラララララー

 

前半に意味のある歌詩があって、後半はすべて「ランラララ ラララ~」で構成されている。前半の歌詩は、確かに都々逸と同じ七七七五の近世小唄調の音数律で構成されているものが多い。

ただし繰り返しになるが、原曲は英語であって、日本語の七七七五の音数律は半ば強引に原曲に合うように唄われているにすぎない。

そして、1番と2番の字余りが特に目立つのは少し不思議な気もする。ここに、この歌詩が作られた経緯の秘密のようなものが隠されているのかもしれない。

 

ちなみに1番の冒頭にあり題名にもなっている「アルプス一万尺」の一万尺とは、日本アルプス槍ヶ岳の標高のことだ。槍ヶ岳の標高は3,180メートルで尺貫法に換算すると約一万尺になる。「小槍」とは槍ヶ岳の頂上の近くにある鋭角な山のことのようだ。

つまり『アルプス一万尺』は日本アルプスの歌であって、ヨーロッパのアルプスではない。

アルペン踊り」は、どんな踊りだろうか。実際にそんな踊りがあるのかどうかはわからない。ただ『アルプス一万尺』を唄いながら(日本の)子どもたちが踊る映像は観た記憶があるし、もしかしたら私も忘れているだけで子どもの頃に踊ったかもしれない。歌詩にある本来のアルペン踊りとは違うものかもしれないが、イメージ的にはそれと重なる。

 

また原曲の『ヤンキードゥードゥル(Yankee Doodle)』で、アメリカ人がフォークダンスを踊る映像も観た記憶がある。しかし、それはアルペン踊りではないはずだ。アメリカの原詩には「アルペン踊り」も槍ヶ岳日本アルプスも出てこないだろうから。

 

険しい山を登りきった達成感で嬉しさのあまり踊りたくなるような気持ちは分からないでもない。いわゆる絶頂感による高揚である。アルペン踊りはそういう気持ちを歌っているのではないかと私は解釈している。

もっとも、なぜ槍ヶ岳の頂上ではなく「小槍の上でアルペン踊りを踊りましょう」なのかは不明だ。実際にはどちらも危険で踊ることなどありえず、そういった気持ちを歌っているだけだろうが、せっかくなら頂上で踊るべきではないだろうか。

だが、頂上ではなくあえて鋭角な小槍の上で踊るところがミソなのだとしたら、アルペン踊りはそういう踊りなのかもしれない。鋭く尖った山の先端で踊る。火消しの出初式でやる梯子乗りのようなものか、あるいはポールダンスみたいな感じか。

 

話しが脱線してしまった。

もとに戻して問題の14番の歌詩について見てみよう。

夢で見るよじゃ ほれよが浅い ほんとに好きなら 眠られぬ

となっていて、問題の都々逸は

夢に見るよじゃ 惚れよがうすい 真に惚れたら 眠られぬ

である。

問題の都々逸の「真に惚れたら」の「真」は「しん」と詠むのだと思う。「ほんと」と読んでも都々逸として成立し、そう詠む人もいるかもしれないが、私は「しん」のほうが相応しいと思う。

(参照)都々逸の七つの決まり

そのため、厳密にいえば同じ文句ではないが、この違いは考慮しなくてよいだろう。口承で伝えられた歌詩であれば変化すのは当たり前のことで、これくらいの違いは無視して差し支えない。

 

では『アルプス一万尺』全体の中での、14番の歌詩としての位置について考察してみよう。

その前の13番と同じく「夢」をテーマとしている歌詩である点から、一見すると内容的に繋がりがあるようにも思える。だが、のどかなお花畑の昼寝を歌った13番と、眠れないほどの強い恋心を歌った14番はかなり趣が違う。

 

私には、13番と14番は一貫性を意識して作られたものではなく、夢をテーマにしているだけの理由で並べて配置されているだけのように思える。それは12番からも推察される。同じ夢をテーマにしてはいるが、12番は夜に見た夢で、13番は昼寝の夢でに意味として繋がりはない。

 

さらに1番から29番までの歌詩全体を見ると、いくつかの例外はあるものの、ほとんどの歌詩が直接的に登山関連を歌ったものであるのに対して、14番は山登りと関係がないように思う。

登山中の宿泊で見た夢のことを歌っていると考えれば関係があることになるが、何かしっくりこない。登山中に見た夢を「夢で見るよじゃほれよが浅いほんとに好きなら眠られぬ」とは歌わないのではないだろうか。

 

また、一部を除いては登山をテーマとした共通性は保持されているものの、歌われている内容の世界観や意味に一貫性はない。全体的にまとまりに乏しいように思える。

登山関連の歌詩に限定しても、題名が『アルプス一万尺』なのでアルプス登山の歌だけかといえば、そういうわけでもない。2番でいきなり富士登山なのだから。

 

つまり、『アルプス一万尺』の歌詩は「別々に作られたものが集められて全体の歌詩として編集構成された」と推測することができないだろうか。

 

 

西堀榮三郎と京都大学山岳部説

 

そこで「『アルプス一万尺』の歌詩がどのようにできたのか調べてみた。

すると、原曲の『ヤンキードゥードゥル(Yankee Doodle)』に日本語の歌詩が付けられたのは『アルプス一万尺』が最初ではないようだ。(断定はできないが)どうやら、中野忠八という人が作詩した『むこうのお山』という歌の成立のほうが早いようである。

 

中野忠八は明治17年(1884)生まれで、日本のスカウト運動の先駆者とされ、スカウティングの指導者訓練に尽力し多大な功績を残した人物である。(ここで言うスカウトとはボーイスカウト等のこと)

『むこうのお山』も、スカウト活動におけるキャンプ時に注意すべき事項などを歌った詩となっている。私はスカウト活動をした経験がないので想像になってしまうが、おそらくキャンプのレクリエーションなどで唄われているのではないだろうか。

指導のため、そしてスカウト活動を楽しんでもらうために『ヤンキードゥードゥル』の曲に中野忠八が日本語詩を付けて唄うようにしたものと思われる。

 

今でもボーイスカウトのキャンプなどで唄われているらしい。

こんな曲である→『むこうのお山』メロディ


著作権は切れていると思われるのでどんな歌詩か引用してみよう。

 

『むこうのお山』

作詩:中野忠八 曲:アメリカ民謡
スカウト歌集所収

 

1.
むこうのお山に 黒くもかゝれば
今日はきそうだ 大夕立
備えよ常にだ ほし物片付け
天幕(テント)に雨水 入らぬように

 

2.
一きわ(ひときわ)吹き来る 涼しい風に
パラ パラ パラット 大粒雨
パラパラパラパラ
パラパラパラパラ
ザザザザ ザザザザ
ザザザザザーザー

 

3.
天幕(テント)の中は 金城鉄壁
雨でも槍でも 苦にやならぬ
サアサア歌いましょ
ララララ ララララ
ララララ ララララ
ラララララーラー

 

アルプス一万尺』では、後半の歌詩はすべて「ランラララ ラララ~」になっているが、『むこうのお山』は後半の歌詩にバリエーションがある。一番似ているのは3番で、『アルプス一万尺』の「ランラララ ラララ~」はこの真似をしているのかもしれない。

 

『むこうのお山』の替え歌が『アルプス一万尺』なのだろうか。それとも『アルプス一万尺』の歌詩は『むこうのお山』とはまったく関係なく作られたのだろうか。

それを厳密に判断する材料がないので、どうしても想像で仮説を立てるしかないのだが、私は『むこうのお山』の替え歌が『アルプス一万尺』なのではないかと考えている。理由はただ何となく『むこうのお山』のほうが、原曲の『ヤンキードゥードゥル』の影響が濃いような気がするからである。

 

 

さて、『アルプス一万尺』は作詩者不詳ということになっているが、京都大学山岳部によって作られた歌詩という説もある。

 

同じく登山をテーマにした『雪山賛歌』という有名な曲があり、その日本語の歌詩は、京都大学の山岳部部員の西堀榮三郎が中心になって作られたものである。京大山岳部が群馬県嬬恋村に冬山合宿(スキー合宿か)に訪れた際、大雪に見舞われて鹿沢温泉で何日も足止めされ、宿で連泊するしかない状況となった。その時に退屈を紛らわせるために作ったものだ。

西部開拓時代に生まれたと言われるアメリカ民謡の『いとしのクレメンタイン(Oh My Darling, Clementine)』の曲に合わせて作詩された。昭和2年のことである。

 

京都大学山岳部と『雪山讃歌』の関係については下記のページが詳しい。https://www.aack.info/ja/news/2020/2020-03-25.html
https://www.aack.info/ja/yukiyamasanka.html

 

ちなみに、西堀榮三郎は登山家であり理学博士でもある。非常に興味深い人物で、旧制第三高等学校の生徒だった時には、ノーベル賞受賞直後に来日した、かのアルベルト・アインシュタインの通訳も務めている。
さらに登山家としての経験を生かしてということだろう、後に第一次南極観測越冬隊隊長にもなった。

 

アルプス一万尺』も、その西堀榮三郎を中心に、京都大学山岳部によって作詩されたという説が主張されているのである。

その説を知った時に、私はなんだか合点がいったような気がした。山岳部員たちが皆んなで作った歌だから歌詩に一貫性がないのだろろう早合点したのだ。

『雪山賛歌』は歌詩全体にまとまりがあるので西堀榮三郎個人の力によるところが大きいのだろう。しかし『アルプス一万尺』の歌詩は全体的にまとまりに乏しい。それは、山岳部の色々な部員が作った詩を寄せ集めたものだからだろうと思った。

 

そして私は勝手に、京大山岳部の部員達が宴会を開き、酔っぱらっていい気分になり、自作の都々逸を『むこうのお山』の節(ふし)で唄い合っている光景を思い浮かべてしまった。そして、それを集めたのが『アルプス一万尺』の歌詩ではないだろうかという仮説を立てた。いや仮説というよりは妄想である。

 

この妄想では、都々逸として作られたものが歌詩になったということになる。都々逸ではないにしても、都々逸を作るのとさほど変わらない感覚で自作された七七七五の歌詩だ。当時は都々逸と同じ七七七五の歌が愛好されたくさん作られ、その音数律が広く親しまれていたので、さほどおかしな説ではないと思う。興が乗ると七七七五の音数律の歌が口をついて出てきていたとしても不思議ではないと思う。

 

山岳部のさまざまな部員たちが作っているので、一貫性はないものの全体的に登山の都々逸が多くなる。「キジ撃ち」とか「花摘み」という登山家がよく使う排泄系の隠語を入れて楽しんでいる理由も納得できる。

宴会中に酔っぱらって作られたのなら、登山と関係のないものが紛れていてもおかしくはない。学生なら恋の歌も作って唄うだろう。また、一つの歌として編纂する際に関係のない都々逸が混入することもあるだろう。

 

だが、そんな妄想に溺れていた私に新たなる説が突きつけられた。
アルプス一万尺』は、長野県民謡の『安曇節』の歌詩を流用しているというものだ。
どうやら『アルプス一万尺』には『安曇節』と同じ歌詩が幾つかあるらしい。
『安曇節』の歌詩も七七七五を基本としているのですぐに流用できる。

 

なんということであろうか。それが本当ならアメリカの民謡に日本の民謡の歌詩がつけられていることになるではないか。そして、私の立てた仮説「『アルプス一万尺』は京大山岳部の宴会の都々逸説」は、ここにあっさり否定されたのであろうか。

 

 

増え続ける歌詩

そこで、当然ながら『安曇節』と『アルプス一万尺』の歌詩の比較をしようと考えた。しかし、調べてみると厄介な問題があることが分かった。『安曇節』の歌詩は、もの凄く多い。『アルプス一万尺』も29番まである長い歌だが、その比ではない。なぜなら『安曇節』の歌詩は今でも創作され、新たな歌詩が加えられ続けられているため際限なく増えているのである。

 

「長野県産業労働部 営業局」が運営している「長野県魅力発信ブログ」の「安曇節の歌詞数」(https://blog.nagano-ken.jp/nihonichi/probably/42.html)によれば、

「現在、安曇節の歌詞は松川村教育委員会に保存されているものだけでも五万首を超え、一説では十万首以上とも言われています。」

とのことである。

 

なぜ創作が続けられ、安曇節の歌詞が増え続けているのか。理由は上記のページに書いてあるが、掻い摘んで説明すると次のようになる。

 

安曇野の民謡『安曇節』は、大正十二年に榛葉太生(しんはふとお)を中心に、同好の有志や村の人々の手によって創出された長野県の松川村発祥の民謡である。

作詩も作曲も専門家に頼らず広く地域から募り、踊りも同好有志や村の人々と知恵を絞りながら創出された。

また榛葉氏の勧めもあり定期的に詞(うた)作りを楽しむ会「踊り会」が開かれ、その数は年とともに増えていった」

 

つまり、専門家に頼らず広く地域から募るという方針で作られた民謡であり、歌詩も地元の人たちが作ることを重視したため、今でも創作が続けられているのだ。

 

五万首や十万首となると、とても全てを検証することはできないが、とりあえずネット上で『安曇節』の歌詩を検索すると、「夢で見るよじゃほれよが浅いほんとに好きなら眠られぬ」の他にも『アルプス一万尺』の歌詩とほぼ同じものが幾つか出てきた。

出てはきたが、しかし、それだけでは『アルプス一万尺』の歌詩に『安曇節』の歌詩が流用されたと決めつけるわけにはいかない。逆に『安曇節』に『アルプス一万尺』が流用されたのかもしれない。

 

どちらがどちらを流用したのかはわからないし、民謡というものの性質上、唄いたい人個人が歌詩を自分で選んで唄うことはよくあるだろう。たとえば、ある民謡と同じ歌詩が別の民謡で唄われていることもある。

同じように、ある個人が『アルプス一万尺』の歌詩を『安曇節』で唄って、たまたま記録されたのかもしれない。それはわからない。

 

基本的にどちらも都々逸と同じ七七七五の近世小唄調の音数で唄える曲なので、歌詩を入れ替えても容易に唄うことができる。

 

さらに、同じとまではいかずとも、かなり似た歌詩もけっこう出てきたので影響関係があるようにも思える。しかし『安曇節』も『アルプス一万尺』も歌の舞台がほぼ同じであるため、似た歌詩が偶然作られた可能性もなくはない。

 

また、『安曇節』の歌詩の中には新たに創作されたものだけでなく、古くから伝わっている古謡の歌詩もある。『安曇節』も『アルプス一万尺』も、既にあった古謡の歌詩(あるいは都々逸)から、同じものを、それぞれ取り入れたのかもしれない。

 

もっといえば、私は「夢に見るよじゃ惚れよがうすい真に惚れたら眠られぬ」を都々逸だと認識しているが、もしかしたら都々逸より前から別の古謡で唄われていた歌詩の可能性も考えられる。

 

つまり、『アルプス一万尺』が、長野県民謡の『安曇節』の歌詩を流用しているかどうかは判断できない」と、いうのが正直なところだ。

 

 

それでも気になったので『アルプス一万尺』と『安曇節』の、どちらが先にできたのか一応は検証してみた。

 

『安曇節』がいつ作られたについては、先ほども参照した「長野県魅力発信ブログ」に「大正十二年に故榛葉太生(しんは ふとお)氏によって創設された松川村発祥の民謡です。」と、ある。

大正十二年ということだが、歌詩はそれから増え続けているので、その時点で決定したわけではない。その年に最初の安曇節の歌詩が集められたということである。

 

一方『アルプス一万尺』は、いつ頃にできたのであろうか。これは調べても出て来なかったので、独自に推測を試みる。

今のところ他にまったく手がかりがないので、とりあえず「西堀榮三郎を中心に京都大学山岳部によって作られた」という説に基づいて推測する。その説が間違いであっても、そういった説が出てくるなら、さほど離れていない時期に作らた可能性が高いからだ。

 

西堀榮三郎は明治36年1903年)の生まれなので、「安曇節」が作られた大正十二年には二十歳ということになり、断定はできないが、京大生だった頃ではないかと思われる。だから既に山岳部に入部して活躍していた時期と重なる可能性は高い。

多少ずれていたとしても、もし西堀榮三郎が京都大学の学生だった時に『アルプス一万尺』の日本語詩ができたのであれば、それは『安曇節』が榛葉太生によって創設されたのと、かなり近い時期ということになる。

 

検証できるのはせいぜいこの程度のことで、何も断定できない。
だが『安曇節』はさまざまな人によって作られ続けているというのは私にとってけっこう重要な発見だった。『アルプス一万尺』も何人かの人によって作られたものという私の仮説が正しければ、そういった創作文化として共通点があることになる。

さまざまな人によって作られて楽しまれるという点では都々逸も同じだからだ。

 

 

仮説のまとめ

乏しい検証結果ではあるが、推測を主として現時点での『アルプス一万尺』の歌詩についての仮説をまとめておこう。

 

アルプス一万尺』は、中野忠八がスカウト活動のために作詩した『むこうのお山』の替え歌を集めたものである。

『むこうのお山』の原曲は、アメリカ民謡で独立戦争の愛国歌『ヤンキードゥードゥル(Yankee Doodle)』である。しかし『むこうのお山』の歌詩は『ヤンキードゥードゥル』の原詩と関係なく創られたものであり、その替え歌である『アルプス一万尺』も原曲の歌詩とはまったく関係がない。

アルプス一万尺』は、さまざまな人が作った歌詩、たとえば宴会の場などで作られた都々逸(と、言い切るのに問題があれば七七七五の近世小唄調の歌)が集められ、一つの歌として編纂されたのではないだろうか。

さまざまな人というのが、一部で唱えられているように京大山岳部の部員かどうかは不明だが、内容からして登山愛好者達であることは間違いない。

寄せ集めてできているので、オリジナルの他に、他の民謡の歌詩や都々逸などが混入している可能性はある。特に14番は都々逸として別に存在していたものが挿入されたと考えられる。

それらは、曲としてまとめる時に意図的に混入させたものか、意図せず混入したのかは不明である。

1番の歌詩はかなり字余りになっているが、これは集めた歌詩を『アルプス一万尺』という歌としてまとめ、完成させる時に新たに創作して少し強引に入れたからではないだろうか。

─以上『アルプス一万尺』の歌詩についての仮説まとめ─

 

 

『安曇節』と都々逸

最後に、ひょんなことからに出会うことができた『安曇節』について少し考察してみたい。
それが都々逸とは何か、都々逸らしさとは何かを探ることにも大いに役立つように思えるからだ。

 

もう何度も書いているように、基本的に七七七五からなる都々逸と同じ音数律の文句は、甚句調とか近世調・近世小唄調とか呼ばれるもので、実に多くの民謡の歌詩、歌謡曲などにも見られるものである。都々逸が誕生する以前から、同じ音数律の民謡はたくさんあった。

そんな民謡の中から都々逸は生まれた。膨大な数の七七七五調の中の一つが都々逸であるにすぎない。

 

それを前提に、「『アルプス一万尺』の歌詞は都々逸である」と、言ってよいのだろうか。正直なところ私にはよくわからない。都々逸として作られて歌詩に採用されたものもあるかもしれないし、明らかに都々逸ではないものもあるだろう。

だが、たとえば、もし私が想像したように、宴会を開いて、酔っぱらっていい気分になって自作の歌を唄い合っているような、そんな作られ方をしたらのなら、それは都々逸らしいように思う。そういう親しみやすさや卑近な感じに都々逸の良さがあると考えるからだ。

 

一方、『安曇節』の歌詩を都々逸と言っていいのかと言えば、もちろん違うだろう。甚句調もしくは近世調の歌詞というのが正しい。そこに都々逸らしさを感じたとしても、それはまた別の問題である。

『安曇節』の歌詩の中には、都々逸のような感じのものがあるが、それはそれらの歌詩が作られた時代の文化や人々の意識が、都々逸らしさと一致するためだからかもしれない。

榛葉太生(しんはふとお)を中心に、作詩も作曲も専門家に頼らず広く地域から募り、踊りも同好有志や村の人々と知恵を絞りながら創出された『安曇節』。しかしながら、民謡も都々逸も本来的にそういうものという点では同じではないだろうか。

 

 

私は最近ようやく下記の本を購入することができた。

『唄え、安曇節』だれよりも安曇野を愛した男 榛葉太生
編著者:中島博
発行所:株式会社郷土出版

『唄え、安曇節』

 

せっかくなので「第四章 安曇節歌詞二百選」からいくつか『安曇節』の歌詩を抜き書きしてみよう。

 

燃ゆる思いは アルプス山の
煙り絶えせぬ 焼ヶ岳

 

槍が高嶺は 信濃の朝日
飛騨の夕日の うらおもて
(榛葉太生作)

 

槍で別れた 梓と高瀬
めぐり逢うのが 押野崎

 

日本アルプス 仮寝の床は
雪をしとねに 岩枕

 

うき世離れた 黒部の谷の
奥で日ねもす 岩魚釣り

 

なにか思案の 有明山に
小首かしげて 出たわらび
(古歌)

 

想い懸ければ 千ヒロの谷も

越えてかけます 登波離橋(とはりばし)

 

一夜穂高の わさびとなりて
京の小町を 泣かせたや
(望月寿賀作)

 

牧の娘の きりょうに見惚れ(みとれ)
大根忘れて から戻り

 

紙を漉く娘の(この) 小唄を聞けば
わしが思いは 水の泡

 

頭禿げても 踊りにかけちゃ
光り輝く 音頭取り

 

うまい言葉に 乗鞍ヶ岳
もゆる思いは 焼ヶ岳

特に
「一夜穂高の わさびとなりて 京の小町を 泣かせたや」(望月寿賀作)
は素晴らしい。

 

 

今回、「『アルプス一万尺』の歌詩の中に有名な都々逸が混入している」という発見をきっかけに、2つの歌について学ぶことができた。その2つの歌には重要な共通点がある。

アルプス一万尺』は、登山という共通の趣味を持った人たちの作った歌詩で構成されている。『安曇節』は安曇野に暮らす人々の作った歌詩でできている。ともに何か繋がりがある人たち同士で作り合い、それを楽しんでいるということである。

 

本来、都々逸や民謡は、そういうところからたくさん生まれて、やがて淘汰され、改変され、その中から後世に伝わり残るものが出てくるのであろう。

都々逸の良さの一つもまた、そういった柔軟なところにあるはずだ。